オートファジーのような教会

いつもありがとうございます。

ありがとうございます。

キプロスのパフォスを毎日ウォーキングしていると、自然と足が向く場所があります。

それがアギア・キリアキ・クリソポリティッサ教会です。

最初は遺跡として素朴な建物に惹かれて立ち寄りました。しかし、この場所の歴史を知るにつれ、私はこの教会を「オートファジーのような教会」だと思うようになりました。

オートファジーとは、細胞が古くなった部分を分解し、新しいものへと生まれ変わる仕組みです。生命が健康を保つために欠かせない働きとして知られています。

この教会もまた、長い歴史の中で何度も生まれ変わってきました。

4世紀には、この場所にキプロス最大級のキリスト教バシリカが建てられました。しかし地震によって破壊されます。

その後、中世に新しい教会が建てられ、さらに16世紀にはカトリック教会として改築されました。オスマン帝国時代には一時モスクとして利用され、現代ではギリシャ正教会を中心に複数の宗派が共に礼拝する場所となっています。



建物は変わりました。

使う人々も変わりました。

時代も宗教的背景も変わりました。

それでも、この場所は信仰の場として生き続けています。

まるで古い細胞を手放しながら本質を守るオートファジーのようです。

ここを歩くたびに、遺跡の石やユーカリの木を見上げながら思います。

私たちの人生も同じではないでしょうか。

過去の経験、失敗、価値観、人間関係。時には手放さなければ前へ進めないものがあります。

しかし、それは失うことではなく、新しい自分へ生まれ変わるための準備なのかもしれません。

この教会は1600年以上の時間をかけて、そのことを静かに語り続けています。

観光名所として訪れる人は多いですが、毎日歩いていると見え方が変わります。

今日は風が強い。

今日は光が美しい。

今日は誰もいない。

同じ場所なのに、毎日違う表情を見せてくれるのです。

だから私は今日も、このオートファジーのような教会の前を歩きます。

変わり続けながら、本当に大切なものを残していく。

そんな生き方を、この古い教会から学んでいる気がします。

ありがとうございます。


一万年の歴史の国 

女神アフロディーテの生まれた国より

カズコ

(注意)他のギリシャ正教会やキプロス正教会には観光客も入れますが、ここは一般人は入れないようです。写真もダメです。


超富裕層との出会いを通じて、なぜ初対面の人にまた会いたいと言われるのか?

肩書きやお金ではなく、ありのままの自分で向き合うことが、心の安心と幸せにつながる

【幸せの本質】

貧乏性の私は、初対面でも「また会いたい」と言ってくださる方々に何度も出会いました。

その中には世界的に見ても超富裕層の方も少なくありません。

海外に住んでいると本当に日本国内では絶対出会えない富豪や超富裕層と出会うことがあります。

特に旅行中や何かしらのパーティで、たまたま、話し始めた人が実は資産家の方だということがあります。

今年は行きたかったギリシャ・世界遺産のメテオラにはバスツアーに参加しました。

そこで、何度も後ろになった人が「英語が上手いね。」と声を掛けて来るのですが、後ろの人なので、私に話しているとは思えないので、無視していました。

「すると、日本人ですか?」と聞かれたので、「はい。」と答えると、「私はM会社の核開発の事業で日本にはよく行っていました。」と言うので、「そうなんですね。」と、普通に答えて話は終了しました。

でも、どうしても、その方は話しをしたいらしく、今度は、夫マイケルに話しかけていました。

そんなこともあり、その方は紙に書いた自分の電話番号とWhat‘s up!のアカウント名とかを下さいました。

内心、すみません、要らないと思って話していると、「ブラジルでB&Bのホテルを退職後に始めたから、ブラジルに来ることがあれば、来て下さい。」とのことで、話が盛りがって、マイケルが登録していました。

会う人、会う人、超富裕層でどうしてかと思うことがあります。

他の人に話しかけている訳でもなく、何でだろうと・・・。

時には、パフォスのウォーキングコースで、行き成り、近寄って来て、「一緒に写真を撮って下さい。」と、言われて、「えっ!」というしかないです。

娘さんが英語が話せるので、「母があなたと一緒に写真が撮りたいそうですか?ダメですか?」と聞かれて、「主人も一緒に撮るのであれば、オッケーです」というと、娘さんに撮って貰っていました。

「私はヨルダンから来た、ハンナです。」と、娘さんが通訳してくれて、写真を送りたいというので、「では、私のスマホでも撮りましょう。」と言うと、喜んでいました。

このようなことは、エジプトのピラミッドの中でも、しんどい思いをしてやっと、辿り着いたクフ王の空間で、行き成り、イギリス人の女性が抱きついて来ました。

変な儀式か何だろうと思っていると、後に来た人達には、抱きついていなかったのですが、本当に、旅は道連れ世は情けを体験しています。

シドニー時代は芸能関係の有名人もお店で買い物して頂いていたのですが、それはそこの空間ですから、それほど、驚くことはなかったのですが、キプロスにいると、多分、聞くと驚くような人達に出会います。

貧乏性で、平凡な生活をしている私に何の魅力などありません。

ただ、子供達も挨拶して来る事も多いので、何か見えないオーラがあるのでしょうかね。

それに、その方がいくら著名人でもあっても、「自然体で接すること」だったからでしょうか。

カメレオンのように、相手に合わせて、話が出来る能力があるからでしょうか。

でも、話していない人とも、抱きつかれたりするのは何でしょうかね。と思うことがあります。

シドニー時代のときは、有名な歌手たちがお店で買い物としても、多分、その人の存在を知らないから、普通に対応してしたら、狭い店の中に10人ほど、その方を求めて入って来て、「サインして下さい」と、言い始めて、それで、その方はうちでは、超安いパワーストーンのペンダントを購入したのですが、「どのように支払いますか?」と訊ねると、「TC・トラベラーズチェックで」というので、「では、XXXドルになります。」というと、5センチぐらいの厚さのTCを出して来て、一枚をテーブルに置かれたのですが、米500ドルでした。

えぇ~。御釣り出さないといけないじゃないの?と、思い、では、「後ろにパスポート番号を書いて頂くために、パスポートをお願いします。」というと、「持ってないわ~。どうしよう!」といいながら、「覚えているから、それでいい?」と、いうので、大体、スタッフの人がいないときに、このタイプの人が多いのですが、占い鑑定もしていたので、予約の時間で、私が短い休憩時間にどうしようと思ったので、「分かりました。どこにお泊りですか、何かあったら、連絡を入れます。」というのもお釣りを現金で渡すことになったので。

その後、鑑定を終えて、ホテルのトイレに行ったら、先ほどの歌手の方のディナーショーがあるらしいので、良かったと思いました。

ヒルトンホテルだったので、時には、ここはアメリカ人クラブかと思うようなハリウッド映画監督なども鑑定を頼まれたりして、今思えば、知らないということは委縮しないで良いと思えることでした。

そのスタンスは変わることなく、今もそんな感じですね。


もう、プロ歴30年以上経つのですが、お金や将来に不安を抱える方々から相談を受けることがあります。

「周りの人は順調そうに見えるのに、私は貯金も少なく、結婚もしていません。

どうして自分だけこうなのかと不安になることがあります。

将来のことも考えると、先のことに迷ってしまいます…」

私自身、大きな借金を抱えたこともありますが、この世的な物質のために生まれ変わったのではないということです。

ですから、

「お金があっても無くても、幸せでいられることが一番大切です」

実際に私が出会ってきた著名人や超富裕層の方々も、お金や肩書きだけで人を評価しているわけではありません。

そんなことをしている人は本当の超富裕層ではないでしょうしね。

あと、笑顔でしょうかね。

それに旅行好きな私の母が言っていた、「お金はあの世に持っていけない」と言うラテン系のノリで人生を謳歌したので、時々、反面教師になりながら、中道を生きています。

古代ギリシャ人の奴隷のイソップ寓話に、「アリとキリギリス」がありますが、原文は「アリとセミ」です。

日本には宣教師がこの「アリとキリギリス」にして、日本人が「アリ」でとても良い印象を与えていますが、本当に、「アリ」は幸せなのでしょうか。

「セミ」は長い間、土の中で幼虫での生活をして、成虫になり、8日間で息絶えてしまいます。

そういう意味では、精一杯生きているセミは、夏しか生きれないので楽しんでもいいのではないでしょうか。

他人と比べても、何の意味がありません。

私が好きな道元師と炎天下にシイタケを干していた老僧おじいさんとの会話

道元「あなたはおいくつですか」

老僧「68歳だよ」

道元「あなたのような徳の高そうな方なら、自分でシイタケを干さずとも若い弟子にやらせたらよいのではないですか」
老僧「他の僧にさせたら自分の修行になりません」

道元「何もこんな暑い日にせずとも、涼しくなってからでも良いのでは」

老僧「今せずにいつするのですか」

自分の人生に誠実に向き合うことで、自分らしさが見えない何かによって、人を引き寄せるのだと思います。

それが、私が学んだ「幸せの本質」かも知れません。

ありがとうございます。

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霊能力を通じての魂の記録

魂の導き、見えない絆を通じて

キプロスからロンドン、そして霊界との再会

ある日、私は不思議な導きに背中を押されるようにして、キプロスからロンドンへの旅に出ました。その目的は、すでに霊界へと還られたオーストラリア人の夫・アレンと、SAGB(英国スピリチュアリスト協会)の霊媒師・テリー氏を通じて、再び語り合うこと。

この旅のきっかけをくださったのは、書籍『天国からの手紙』の著者・武本昌三さんでした。彼との出会いが自然と、霊界への扉を開くテリー氏へと私を導いてくれました。 やがてロンドンで開催されるスピリチュアル・ワークショップへの参加を決意する流れとなったのです。 その旅には、現在の夫であるキプロス人・マイケルも、静かに寄り添ってくれました。

想定していた霊とは異なる登場

セッションでは当然、アレンが現れるだろうと思っていました。けれども、そこに現れたのは、まったく予想もしていなかった霊的な存在たちでした。

「あなたを指導しているのは、中国の高貴な霊。その隣には、黄色い仏衣をまとった子どもがいます。」

私はすぐに悟りました。その子は、マイケルとの間に誕生するはずだった、流産で失った私の大切な子どもの魂だったのです。もし生まれていれば、3歳くらいになっていたはず。キプロスに移住して、生活に不慣れで寂しいときや嬉しいときに、「お母さん、泣かないで。僕がいつも側にいるから」「大丈夫だよ」「頑張りすぎないで」と、いつも励ましてくれていました。

キプロス生活の14年が過ぎゆく中、親しくしている友人から手紙と葉書を受け取りました。そこには、優しそうな眼差しをした青年が写っていました。まさに、もしその子がこの世に生まれていたら、こんな風になっていただろうと思える姿でした。その写真を見つめていると、まるでその子が微笑んでいるように見え、胸が熱くなりました。

別れが訪れることなど、想像していませんでした。そして、ある朝、静かな声が私に届きました。
「僕はもう霊界に帰らなければならない。来世で、また会おうね。」

透き通るような声に、涙が溢れました。言葉にできないほど深い愛と切なさが、私の中でひとつになった瞬間でした。

別の霊能者が伝えてくれた“もう一つの真実”

シドニーに暮らしていた頃、私をプロの霊能占い師の道へと導いてくれた、親しい日本人の霊能者夫婦の奥さんがこう語ってくれました。

「その子はとても特別な使命を持った魂だね。親子として生きるより、霊界からカズちゃんを支える道を選んだんだよ。」

「その子がこの世に生きていたら、あなた達はオーストラリアに留まることになる。だから、あなたの使命を果たすためには、あえて新天地のキプロスへ移住することが良いと言っているよ。」

チャネリングを通して伝えられたその言葉を聞いたとき、私は深い納得と慰めを覚えました。私はその言葉に深い霊的な意味の大きさを感じました。 「生まれなかった命」ではなく、「霊的な伴侶」として私の霊的な活動のために共にいてくれていたのだと思いました。 この子は確かに、長い年月、私のそばで見守っていてくれていたのです。

霊界の存在は摩訶不思議なものです。あるときは、この子より先に亡くなっている母と一緒にいると言われたこともありました。

キプロスという新天地

もともと、私はキプロスに住む予定もなければ、ギリシャ語を学ぶ予定もありませんでした。けれども不思議な導きにより、子供の頃から古代遺跡・秘儀・神秘学といった分野に関心はありました。しかし港町で育った私は濁音が多いギリシャ語が苦手で、20代にヨーロッパを旅行したときに、うどんが食べたくなり、日本食レストランでうどんを食べた後に、店主さんが「AU REVOIR サヨウナラ!」と言われた後、シドニーに帰ってフランス語を学び始めたくらいでした。

キプロスに来てから、なぜ、ギリシャ語を学ぶ必要があったのか、長い年月をかけて理解しました。エンジェル・ウィスパーというお店をシドニーで開業しましたが、それはあまりにも早すぎたニューエイジショップでした。アロマ精油、パワーストーン、魔法使いから教えてもらったハーブで作るおまじない……。これらのすべての原語がギリシャ語からであることを後になって理解することで、学びの道具だったと気付いたのです。

一万年の歴史を持つキプロスは、私にとって魂の再誕と目覚めの場所になったのです。

テリーさんという「本物」との出会い

私は子供の頃から霊的な感受性を持ち、人々の悩みを自然と読み解いてきました。霊能力を持っているからといって、順調な人生とは限りません。誰もが、この地球に生まれたということは、学びの場を持つことができるためでしょう。私の人生も例外ではなく、波瀾万丈の連続です。迷い、自信を失いそうになる瞬間があります。特に、愛する人との別れは……。他者の家族をリーディングするときは、冷静に言葉を受信することができます。しかしながら、自分の事になると冷静ではいられないのは人間だからでしょう。

他界した夫を失い、永住権の件もあり、シドニーに帰った矢先に、東京に住んでいた友人から国際ファックスが届きました。そこには、「母危篤、直ぐ、日本に帰国せよ。」という文章でした。シドニーで新しく出発するつもりで片道の旅券でしたから、その日に、兄に国際電話をかけると「話しが出来ない状態だから、もう、長くないだろう」と言われました。色々な意味でその時期は何度も豪州と日本を行ったり来たりしていたので、金銭的にもかなり厳しかったのです。住む場所も携帯電話の契約などもしていたので、日本に帰るとなるとどうしようか考えました。でも、死に目に会えないとなると、今後の人生で後悔することになりそうでしたので帰国することにしました。

結果的には、半年ほど日本にいることになりました。母の葬式も終え、ある夜、兄家族と夕食を共にしていました。実は、私以外の家族も霊能力を持っています。プロとして活動しているのは私だけですが、兄はヒーラーであり、霊能力も私以上だと思います。ただ、言葉の使い方がダイレクトなので、準備が出来ていない人への配慮に欠けるような話し方になることがあります。霊能力はありますが、現世では商業的には利用する予定はないのでしょう。

そんな兄ですが、その日は私の心の中で他界した夫に会いたいという念が兄に伝わり、「おまえ、アレンのことがきになるんじゃろ……。」と聞いて来ました。「え!何で分かるん?」と聞き返すと、「お前の側にアレンがおるけぇ。」と言うので、兄がアレンの魂を自分の体に入れてくれました。憑依させてくれたのです。それで、手を取り、「そっちの世界はどう?」と英語で尋ねると、なぜだか分かりませんが、兄はスペイン語で話し始めたのです。兄は英語もスペイン語も話せません。途中、姪っ子も参加することになりました。短い時間でしたが、兄のお陰で話すことも出来ました。

ただ、家族ということもあり、キプロスに移住してから、どうしてもミディアムである人にシッティングして貰いたかったのです。人生で多くの人をリーディングして来ていますが、自分自身の霊的な悩み事はあまり誰かに尋ねることはありません。多くの名のある人に会ったことはありますが、常にこの世での使命の話しになってしまい、霊界に還ってしまった家族の事を話しても本物でないと思っていました。

ロンドンで数日のワークショップに参加した後に、最後の日、テリーさんのシッティングの時間がやって来ました。ヨークシャー訛りのある英語で、録音するためにカセットテープを受付で購入して、そのときが始まりました。30分の内、25分ぐらい、テリーさんが話していました。先にお伝えしている赤い服を着た高貴な指導霊とともに、私の霊的な伴侶である流産した息子の前に、「小柄なあなたの祖母が一緒にいます。」と、言い始めました。直ぐに、誰だか分かりました。

次に、「アニマルスピリットも2匹います。一匹は、ゴールデンレトリバー、一匹は、白黒のネコ。」

その後の話の中で、なぜ、本物だと確信出来たかというと、「あなたの後ろに、若い男性がいます。」と言われて、若い男性と言われても、誰だろう、亡くなっている若い男性は私に関係があるようでしたが、誰か分からないと思っていると、テリーさんは「その男性は、あなたの身内で、生きていれば、30歳ぐらい……。」と言われましたが、遠い昔、母が流産したことがあると聞いたことがあるのですが、その人かと思っていると、「白血病で亡くなった、と言っています。」とテリーさんが言いました。

私が成人を迎える前に日本に一時帰国しているときに、親戚で白血病の男の子がいました。当時、その子は10歳ぐらいでした。帰国して直ぐに、その男の子の両親が私に会いに来ました。話しによると、大勢いる親戚達で誰もその子が必要な血を提供したくないようでした。検査さえも拒否していたようでした。兄と私だけは拒否することもなく、直ぐにと言われて、岡山の倉敷病院で白血病患者のための血液を移植するために行きました。当時はそこだけが高度の医療器があったのでしょう。どんなことをするのかさえも、事前に説明もなく、兄が運転して行きました。その親戚の叔母さんは、車の中でブツブツと文句ばかり言っていました。多分、兄が前の日にビールを飲んだことに腹を立てていたんだと思います。

私は貧血体質でしたが、その親戚の強い要望で、「生理が終わったばかりだから、難しいと思う」と言いましたが、神に縋る思いだったのだと思います。兄も虚弱体質ですから、「わしは無理。」と言っていましたが、行くことになりました。造血幹細胞移植だったと思います。当時は先生からの説明もなかったので、何をするのかも知りませんでした。

私から始まったのですが、血液検査で適合したのかさえも分かりませんでした。行き成り長い長い針を見た瞬間に目を瞑りました。20センチの針を血管に刺す事が難しく、お医者さんに打診されて、成人になっていない女性は不可と言われてしまいました。兄は半分ぐらいは血液を提供出来たようでしたが、途中でドクターストップになったようでした。その親戚には、「私も兄も体が大きいのに、役に立たない……。」と、家に帰るまで永遠に言われました。

それでも、その子に罪はありませんから、もう一度、体調が良い日があり、お医者さんの「許可があれば遣る」と、私は言いました。数日後、その子の所にお見舞いに行くと、「カズコ姉ちゃん、オーストラリアはどう?」と訊ねてくれて、骸骨のように細くなっている彼を見て、「うん、コアラも抱いたよ。カンガルーもぴょんぴょん飛んでいるよ。」と言うと、「いいな。」と言って辛そうだったので、「またね。」と言って、病院を後にしてオーストラリアに渡豪しました。

残念ながら、お葬式にも参加出来ませんでした。兄も私も親戚から言わせると、「悪人だ」と言われ続けていました。「あんたたちが、死ぬ気で血を移植していれば、助かったかも知れない」とも言われました。私自身は葬式に参加していなかったので、私たちの家族全員が批難され、兄もそこに参加していた人達は検査さえもせずに、咎めていたので喧嘩になったようでした。それを知ったのはかなり後になります。

そんな想像さえもしていなかった人物が私の背後にいてくれていると聞いて本当に涙が溢れてしまいました。本当に30分という短いセッションで、私が話す時間はたった5分間でした。尋ねたことは、「アレンの事」でしたが、テリーさんから、彼の言葉はありませんでした。時間がオーバーしそうになったので、「今後の展開」を聞きました。

「小さいタウンハウスに住んでいます。とても、居心地が良いようです。」
「インターネットを通じて、日本人に向けて霊的なメッセージを配信して行くことでしょう。」

この日本人に向けてと言われて、ニコシアでは、現地の人のために、お店を見て回っていました。テリーさんに言われた、日本人に向けてで、私の思考は180度変わりました。霊界から「この道を歩みなさい」とはっきりと伝えられたと感じました。テリーさんのセッションは言葉にならないほど、霊的に大きな転機となりました。

魂の記録は、今も静かに続いている

テリーさんのシッティングがメインでキプロスから電話で予約を入れた日に、マイケルに「ワークショップも同じ日にあるみたい」と言うと、「参加しよう」と言う事になりました。私も霊能者ですから色々な霊体験をして来ています。物を動かすという霊は初体験でした。本当にテリーさんのワークショップで不思議な現象続きでした。

一番、驚いたのは、その場にいた5人の大柄な人達が、みんなでその樫のラウンドテーブルを持ち上げることをテリーさんに促されて持ち上げようとしました。重過ぎて、びくともしませんでした。それで、「手を付けずに、テーブルを回してごらん。」と言われますが、動きません。もう、周りも私たちも爆笑していました。すると、テリーさんの口笛の音で大きなテーブルがだれも触れていないのに回転するという体験を撮影したビデオがありました。

私だけがデジカメを持参していたので、「ほら早く撮影して」と他の人達に催促されて撮りました。生徒さん達でカメラも持っていないので、当時はメールして欲しいという要望さえもありませんでした。

キプロスに帰って来て、デジカメで動画を確認をしたときにはその体験映像はありました。まだ、YouTubeさえもなかったときでしたから、何となく、世に出してはいけないと思い、パソコンに保持していました。けれども、なぜかその映像はどこにも残っていません。何度もパソコン、バックアップなどを確認しましたがありません。

今でもこう思います。「本当に大切な記録は、魂の中に刻まれている。それは形として残らなくても、心と記憶の中で、必要なときに必ず甦る。」そして今、こうして文章として振り返ることそのものが、霊界との記録の再現になっているのだと思います。

「かきなさい」という霊界からの指示

キプロスに帰ってきてから、ある日を境に、私は耳元で何度も「かきなさい」という言葉を聞くようになりました。最初はその「かく」が、書くなのか描くなのかも分からないほど、ただ音・声として届いていたのですが、不思議と、私は自然とどちらも始めていました。 言葉を「書く」こと、そして絵を「描く」こと。ついでに、指を使うため、編み物も始めました。

子供の頃は、絵を描くのも、文字を書くのも大好きでした。ただある日、私の書いた作文を目にした小学校の担任の先生が、何度も放課後に居残るように強制して来ました。作文を書くように遅くまで一人ポツンと教室にいました。絵に関しても、その先生は新聞記者を集めて、私を含めた複数の生徒に絵を描かせる光景を写真に撮らせていました。 私はそのような強制的な圧力が嫌で何度も学校に行きたくないと思うようになったことがあります。ただ、たくさん、賞状を受け取りました。紙よりもお菓子とか欲しいと思いました。(笑)

その当時から、私の心には私が本当に求めていた言葉や表現ではないのではないか?という疑問がありました。その時代は先生の発言は絶対ですから、発言しないと頬っぺたを抓られ「ロボットになるな!」という先生、発言すると竹の棒で、「黙りなさい」と机をバシバシと叩く先生方が担任で本当にびくびくしながら学校に行っていました。 小学生の子供ですから、歯向かうことも出来ませんし、大人しくしていると体罰を受け、発言すると脛を蹴られたり、竹の棒で机を叩く大人達をぼっーと見つめていました。そのような大人の意思で強制的に遣らされてことに対して嫌気を感じたので、出来るだけ目立たないようにダラダラと生きるようになりました。勉強しないように出来るだけ無難に生きることを高校生ぐらいになるまで義務教育が完了するまで続けていました。本来の自分を隠して生きていました。

そんな思いも含めて、テリーさんのシッティングを受けてから、霊界が私に、内側にて溜め込んでいた霊的な記録やビジョンを表現するように導いていたかのようでした。パソコンにWi-Fiが通っていなかった2000年代の初め頃でした。それまでは、シドニーや東京での活動も、対面のリーディングやカウンセリングが中心でした。そして、キプロスに移住してからは、私自身も表に出ることを避けスローライフという言葉が流行っていましたから、静かに隠れて暮らすようになりました。そんな中、故・丹波哲郎氏(霊界の宣伝マン)に関係するブログで、自然な流れで「書くこと」を再開することになりました。どうやって、繋がったのかさえも、正直覚えていません。

「ツーツートントン」と送られる周波数

最近になって、またふと「書かなければならない」という強い気持ちが湧いて来ました。コロナ禍のときに、長い間、海外生活から地元に3か月ぐらいでキプロスに帰る予定でいました。マイケルにも、そう言って、ハードルの高いPCR検査や隔離生活をしました。霊的な生活が出来る反面、日本では身体の異変が多く出て休むことが増えました。キプロスに帰って来て、2023年は体調の改善に取り組むことにしました。遠い昔、祖母が教えてくれた知恵を辿って行きました。2023年の私のブームはキプロスの山にある松葉を大量に松葉ジュースとして飲んでいました。嫌がる夫・マイケルにも、ジュースの代わりに松葉ジュースでした。

2024年の6月にふと、ロイヤルゼリーを摂りたいと思い、キプロスで生のロイヤルゼリーを販売しているところを探しました。すると、マイケルが月に2回ほど2キロのハチミツ専門店に行って買っているので、その人に尋ねると、冷凍庫から10MLで30ユーロということで、買って来てくれました。覚醒しました。
チャクラがくるくると螺旋状に回転して、気分が明るくなりました。その日を境に、童心に戻った気分になり、こんな占いを作りたいと思うとするするとアイデアが浮かんで来るようになりました。それ以来、あまりにもたくさん作り過ぎてしまっています。

コロナ禍後にキプロスに帰って来てからはこの3年間は自分が遣りたいことを中心に来ています。プールで泳ぎたいなら泳ぐ、寝たいなら寝る……。読みたい本は読む。そんな感じでしょうか。もう、縄文人なのかタオなのか分からない状態です。しかし、一見ダラダラしているようで、考えているんだと思います。

今年になってから、母が霊界から催促して来るので、時期が来たのかと思いました。指導霊も呆れていたと思います。遊んでばかりいると、私がついている意味がないというような両手をあげてお手上げ状態だったと思います。霊界では、誰が私に囁いても、「あやつは遊んでばかりいる」と言われているようでした。

そういうときは、霊界の存在が本物かどうか試すことがあります。例えば、以前から、「ギリシャの世界遺産のメテオラに行きたい」と思っていました。「そこに行くことが出来れば、信じるよ。」と言い返すことがあります。落第生の私のような者を指導するのも大変だと思います。守護霊だけではダメだから、指導霊までも付けて頂いておりますが、もう私が時々さぼることを察していている方々は、「本当に行ったら、書き始めるよね。」と言われているようでした。

2025年5月31日にギリシャのテッサロニキに行きました。マイケルの写真の展示会が開催されることになったので行くことになりました。行きたいと思えるところはほぼ行っています。会いたいと思える人にも会っています。覚醒したのだから、しっかりと使命を果たすように、ラモス信号のように“ツーツートントン”と見えない電報のようなエネルギーを送っているのが頻繁になって来ました。

実際には、しっかりした声が聞こえます。でも、あまり日常的に、あちら側の人達と話していると、変な人(既に変ですが)に思われるので海外生活で良かったです。賞状を貰うためのような、義務感ではなく、内側から響いてくる霊的な言葉やアイデアは素晴らしい周波数です。

周波数のその信号は、声ではなく、感覚や青いオーブで届きます。寝ていると天井に小さい青いオーブが徐々に大きくなって行くのです。今こそ動きなさい、言葉を綴りなさいというように、かなり細かいので、言葉では表現できません。それと一緒に、例えるならば、モスキート音が聞こえるのです。聞こえそうで聞こえない。

私はコロナ禍で難聴になったので、常に、片方の左側の耳は音が聞こえています。ゴッホなどは、この音が気になり過ぎて、耳をそぎ落としていますが、私は結構好きです。エンジェルの歌声に聞こえたりします。ただ、この音が聞こえるため、日本では若い女性の高い声が聞き取れずに苦労しました。その事を耳鼻科医の先生に話すと「僕も聞こえないから大丈夫」と返答されて笑っていました。もう、こんな事を言うと、精神科に送られてしまいます。

私が今なぜ、書くことに拘る理由は、長年に渡り、90年代からパソコンや携帯電話、スマホなどを使って来ているので、電磁波の影響で脳にダメージを受けています。今年は睡眠障害かも知れないというと、掛かりつけのお医者さんが専門医を紹介して下さり、MRIから始まり、脳波の検査、無呼吸症候群の可能性もあるということで、ありとあらゆること検査をさせられました。(笑)左側のどの部分か忘れましたが、神経系にダメージがあるらしいです。3か月間、専門医に言われる通り検査しました。

私自身が霊能者というとややこしいことになるからとマイケルに言われて、「どんな夢を見るのか?」と聞かれました。声が聞こえるとかいうと多分、てんかんかパーキンソン病等を疑われる可能性がありますので、「母が夢に出て来る」というと、「ドイツ人の心理学者を紹介するわよ。」と言われました。マイケルの親戚にNYから時々、キプロスに来るオーストラリア人の女性は心理学者なので、そんな話しをするときがあります。霊的な話しになるので、心理学では解決出来ないのでしょう。

結局、薬もなく、半年から1年先にニコシアの病院の予約を入れてと言われましたが、予約が取れないまま待機しています。多分、それ以上何も検査出来ないようです。緊急性がないのだと思います。その後も先生からも「眠れますか?」と電話がありました。「ビタミン剤のメラトニンを取るようになってから眠れます」というと、「それは良かった」と言われました。睡眠薬は飲みたくないというと、ビタミン剤として勧められました。

今まで、朝から遅くまで、徹夜することもあったりしたり、紙で本を読むものもありますが、電子書籍で読んだりするので、脳はもう疲れ切っていると思います。それと同時に目を酷使し続けているので、どうなるか分かりません。でも、それ以上に言葉を通じて、必要な人に思いを伝えたいというか伝えるための活動をしないといけないのでしょう。怠けてはいないけど、目に見えないけれど確かな存在たちからの呼びかけは絶対です。

書くことは、霊界との交信であり、愛と光の記録

私はこれまで、自分自身の霊的な体験や導きを、どこか「語るには早すぎる」と感じてきた部分があったのかもしれません。

けれど今は、はっきりと分かります。「書くこと」そのものが、霊界とこの世界を結ぶアンテナであり、私に与えられた大切な役割の一部であるのでしょう。それは魂の記憶と、霊界の方々の意志が重なり合った必然であり、見えない存在たちの言葉を私を通じて共同作業なのです。

そして、今ここから……。

こんな私を根気よく待ち続けてくれている霊界の方々のためにも、この書くことによって、同じように見えないものを感じている誰かの道標になれるなら、それもまた私に与えられた霊的な奉仕なのだと感じています。20年前から書き始めていますが、言葉として残していないことばかりです。

まるで、それはシルバーバーチの霊界通信のように

霊界通信のように書ければいいのですが、陰陽のように波があるときがあるので、書き始めたけど、自分だけのために残して置こうというものもあります。ですが、不思議なことに、こうして書き綴られていく言葉の数々は、まるでシルバーバーチの霊界通信のような響きを帯びています。それは、見えない世界からの静かな励ましと愛と光のバイブレーションであり、この地上世界を生きる私たちの魂に、「本来の道」を思い出させる周波数を送って来てくれています。

新地球のために、これからも書き続けていきます

私の内なる導きは、こう告げています。

「いまこそ、新しい地球のために、霊的な真実を書き残しなさい」

「それがあなたの魂の約束であり、宿命である」

「あなたの書くことには、霊界の祈りと愛と光が込められています。どうぞ、これからもその筆を止めずに歩んでください。」

多分、煽てると頑張るタイプだと分かっているのでしょう。自分の脳にどれぐらいの限界があるか分かりません。それでも、これからも書き続けて行きます。誰のためでもなく、魂の真実のためにです。 そして、いつかこの記録が誰かの目覚めの扉となることを信じています。

次世代の魂の君のために、届くことを願っています。

ギリシャ旅行での心の旅

5月下旬のある朝にマイケルがメモ書きした紙を持って来て、「この日にテッサロニキで写真家達のイベントがあるから行こうと思うけど、どの時間が良いと思う」との事で、私の予定を聞く前に、既に、どの時間の飛行機の時間を先に検索していたらしいことは何となく分かりました。

パフォスからテッサロニキには1日に数本の便が飛んでいるのですが、時間帯によっては料金が大きく異なるので、話した後に予約したかったのでしょう。

マイケルはあまり計画するのが好きでない性格なので、預ける猫達の手配やお泊まりする場所も6月は観光客が欧州はジューンブライドシーズンで多くなるので、予算以上になるので、探すのが大変でした。特に、そのイベント会場の近くが良いと言うので、検索して、地図を見せると、「ここからは遠いしね」となり、アパートに滞在中する予定で予約しました。料金はホテルと同じでしたが、レビューも良かったので、60平米ぐらいで広かったので、そこに予約をしました。

イベントは夜9時からスタートでしたので、早朝便でパフォスからテッサロニキに着きました。

天気予報では、夜は雨で最低気温は15度でした。

持ち込みできるスーツケースに何を持って行くかということになりました。

この航空会社をコロナ以降使っていないので、かなり変更されていたので、国際線と言っても、飛行機を降りると階段で昇り降りしないといけないので、重たいと疲れそうと思いつつ、テッサロニキのSNSを見ているとコートやダウンジャケットを着ている人ばかりで、寒そうでした。

当日も雨との言う事でしたので、軽めのでジャケットを入れましたが、結果的には夏でした。

雨も降らず、傘もう入らず、気温も30度以上でした。

マイケルの写真

イベントも大成功でした。

欧州圏からのマイケルのギリシャ人の先生にオンラインで学んでいる生徒さん達の集まりでしたから、私は高校時代は写真部にも所属していたので、学ぶことが出来て楽しかったです。

イベント会場からバーに流れて、気づくと朝の3時でした。

もう、限界を通り過ぎていましたから、マイケルに「帰りたい」というと、皆に挨拶をして帰ることになりました。まだ、飲んでいる人もいました。三次会に行くという人達もいました。

次の日は遅めに起きようと思っていたのですが、近所のギリシャ正教会の鐘の音が鳴り響いて、目が覚めてしまいました。

二日目はゆるく海岸通りを歩くぐらいが予定でしたが、朝から、写真家の人がお昼に僕たちはここにいます。とアプリでマイケルに連絡が来て、私は別行動で良いと伝えましたが、行かないと言って暑い中を歩いて、ブランチを食べて、アパートに帰ったら、先生から連絡があり、「今夜、ここで夕食をしましょう。7時半から、参加する人は返事を下さい。」ということで、マイケルは参加するかと訊ねて来たので、了解しました。

お昼に歩いて行った場所に、また、夜も歩いて行くことになりました。

10人の集まりになりました。

ギリシャ料理は本当にシドニー時代から食べていましたが、本場のギリシャ料理が美味しいのは、オリーブオイルと美味しい塩とパン、ハーブの組み合わせなのでしょうね。

その夜は、ジュースとお水だけで、美味しい料理を楽しみました。

二次会に誘われましたが、マイケルの用事が朝からあったので、私たちは帰ることにしました。

3日目は、お昼ごろまで、1人の時間もあったので、テッサロニキ考古博物館に行くことにしました。

テッサロニキの人はとても親切で、道に迷って尋ねると気軽に教えてくれました。

スマホも電話のみ出来る設定にしているので、スクリーンショットとテッサロニキ考古博物館という代名詞のみで、歩いて行けました。

テッサロニキに初めて行ったのは、マイケルが衣装担当で、キプロス映画の「アガマス」がギリシャ国際映画祭にノミネートされた時に行きました。

キプロス映画のラブストーリー

そのテッサロニキに行く予定の前にイギリスのミディアム(霊能者)の先生のワークショップに参加したい際にsittingでリーディングして貰った時に、マイケルが終わって、「テッサロニキに行くと言われたけど、言ったの」と聞かれたので、「何も言っていないよ。」と言って以来、テッサロニキにはご縁があるのでしょう。

テリー先生にも会いたいです。

もう何年も前からテッサロニキに行ったら、世界遺産のメテオラに行きたいと言っていますが、なぜか、ご縁がなかったのでしょうね。

2019年にアテネに滞在したときに、メテオラに行こうと試みたのですが、電車でのツアーで12時間とありましたが、冬だったので、寒そうでマイケルに訊ねたら、「テッサロニキからの方が近いから、今度、行こう」と言われて以来でした。

その今度は行こうという約束から、今回は行くことになりました。

イベントでテッサロニキに行くと聞いた時にメテオラに行けるのなら、行くと言いました。

ヴァルラーム修道院とアギオス・ステファノス修道院に行きました。

メテオラとは、ギリシャ語で「中空に浮かぶ」を意味する「メテオロス」が語源。14世紀に標高約616mの岩山に築かれた最古にして最大の修道院、メガロ・メテオロン修道院も、ここから名付けられました。

迫力がありすぎます。

綺麗な景色

岩だ!ダイナミック過ぎて、感動!

子供の頃から石が好きだけど、岩を見に色々な国を旅しています。

エジプトのピラミッド、ヨルダンのペトラ遺跡、徳島の剣山の石・・・。

女神アフロディーテが生まれた場所もペトラ・トゥ・ロミウも大好きです。

この岩の周りを泳ぐと永遠の愛が見つかるという伝説があるそうです。

周りは泳がなかったけど、海も綺麗で泳ぎましたね。最近は、高速道路から、眺めながら、お祈りしています。

ギリシャは訊ねる事に、良いエネルギーを受け取ることが出来ます。

ギリシャ神話やギリシャ正教会の歴史も長く、遺跡も至る所にあるし、宝石の原型も紀元前にはすでにあったし、ハーブや塩も豊富で、オリーブオイルも美味しかったです。

ここ最近は、全くお酒を飲まなくなっていましたが、白ワインも美味しかったので、飲んで見ました。何が違うのか、本当に美味しかったです。

テッサロニキの夕日

人生、それほど強く願っていませんが、行きたいと思った事や会いたいと思う人には会える様です。

願いが叶うのは、実は宇宙の法則がそこにあるのです。

「願い過ぎない方が、宇宙の流れに乗りやすい」

私たちが「ふと」思う事には、実は深層意識のデータベースが関与しているのです。

ですから、思考の表面に現れた「何となく」は、すでに道が繋がっている未来からのサインであることになります。

つまり、宇宙の心が響き合う、柔らかな意志が、最も強い力になるという法則です。

久しぶりに移動出来て、心身、魂も浄化出来ました。

ありがとうございます。

新しい時代を心豊かに生きるためにも、宇宙の流れを知りながら、あなたが生まれて来た理由を思い出して下さい

いつもありがとうございます。

ありがとうございます。

2021年もどうぞよろしくお願い致します。

私が住んでいるパフォスでは、11月からセミロックダウンが始まり、クリスマスも大晦日も夫婦だけのお祝いを迎えたのは初めてでした。

お正月も2人だけで、普段通りの食事を作り、日課のウォーキングに行き、次の日から仕事を始めました。

親戚や友人とも会えないままの年を越し、コロナの感染者数が減らないので、本格的なロックダウンに2021年1月9日から始まりました。

2人以上での行動を制限されたり、レストラン、カフェ、お店も閉じています。

去年の11月終わりのセミロックダウン中に歯医者さんに行き、1月の中旬に予約していたのもキャンセルの連絡が来ました。

開いているのは、スーパーマーケットと薬局、ホームセンター、ガーデニングぐらいです。

この4年ぐらい前から、自分で髪の毛も切るようになったのですが、美容院も閉まっています。

2020年の3月から私自身は一度もスーパーマーケットに行ったことがありません。

ロックダウン中は、外出する際には、SMSで連絡をしてから、許可の連絡が来れば、出かけれます。

一日、2回までです。

不便ですが、慣れて受け入れています。

ある陰謀論では、「コロナはただの風邪」「コロナ脳」という流行り文句がありましたが、テッサロニキに住んでいるギリシャ人の友人達はコロナに感染したときに、死にそうだったと言っています。また、キプロスではありませんが、コロナで亡くなった人がいます。

私自身は去年の夏から気管支炎になり、夜間救急で検査をして貰いました。

お医者さんには、「熱がある場合は、PCRテストを受けなければならない」と、言われて、良い気分ではいませんでしたが、受けました。

陰性か、陽性かの結果が分かるまで、外出は出来ないので、ウォーキングはマイケルだけに行って貰いました。

SMSで結果が届いたのですが、「14日間、自宅にいて下さい。」とのことで、自宅での対処のリンクが貼られていましたので、驚きました。

2020年はロックダウン後、どこにも行かず、ウォーキングのみで、会う人はマイケルのみでした。

唯一、ロックダウン後、私の誕生日の前日に、義理の母、カトリーナのお葬式でその時期は、100人ぐらいまでは、参列できるということで、大勢の親族が村に来て下さったので、お手伝いをしたりしていましたが、会話には参加しないでいました。

親しい人と会うと、ハグや両頬にキスをする習慣がありますが、コロナ禍ですので、日本式のお辞儀をしています。

まさかの陽性とかなり焦りました。

会った人達にも連絡を入れないといけないのか?と、思い、どの人経由で感染したのか、定かでないため、マイケルと話し、お医者さんからも保健所に再確認を入れて貰うことにしましたら、誤送だったらしいです。

次の日に連絡があり、「陰性」とのことでしたが、気管支炎はなかなか完治せずに冬を迎えてしまいました。

2021年もコロナを完全に食い止めることは無理でしょう。

たった一人の無症状の感染者によって、クラスターに拡大することもあるため、人気のある場所や人口が多い場所では、感染してしまいます。

風邪にかかったときに、注射や風邪薬で治るのであれば、怖がることもありませんし、冬場になれば、予防接種すれば、重症化を妨げることも可能でしょう。

しかし、「コロナウィルスも時代の流れ」も目には見えません。

ですが、確実に「流れ」は変化しています。

風の時代・水瓶座に突入してからは、人々の意識は「物質的な豊かさよりも精神的な豊かさ」に意識が向いています。

先日、私事ですが、1月10日に少し髪の毛を切り、髪の毛を染めるために、ダイヤモンドのネックレスを外し、夜にそのネックレスを着けるときに、「このダイヤモンドも古くなった」と、思ってしまいました。(実際には、天然ダイヤモンドですが、化石と同じなので、古いのが自然なんです。)

あくる日の朝、胸に輝くダイヤモンドがない事に気づき、探しましたが、見つからず、マイケルは土管も見てくれました。

次の日にシンクが詰まったので、業者を呼んで、つまりは解消したのですが、ダイヤモンドと白金のチェーンは見つからないままでした。

昔から、母親から、大切にしていた物を失くすときは、「厄落としや身代わり」としてなくなると言われていたので、体調が芳しくないこの時期、コロナにかからず、年を越せたことに感謝しています。

命以上に大事なモノは今の時点ではないので、自分以外のマイケルの体調も考えると、物が身代わりになってくれたのであれば、有難いと思いました。

普段ですと、厄除けのために、旅行をしたりするのですが、それも、去年は控えています。

人によっては大丈夫だという人もいますが、欧州の状況を見ていると楽しめるようには見えないので、落ち着くまでは、我慢しています。

私たちの友人でお金持ちの家族は、去年のロックダウンから一度だけ、そのご家族の母親が亡くなったときに、葬式に行ったとき以外は、一歩も外に出かけていません。

家も豪邸で数人で暮らしていますが、庭にも出ていません。

ご主人も複数の会社経営をしていますが、一度も会社に行かず、すべてリモートで指示しているそうです。

3年間ぐらいは持ちこたえる財力はあるようですが、それでも、数百人を社員として維持するには、給料を払い続ける必要があるようです。

御曹司君は、もともと、オタク系なので、大学を卒業してから、キプロスで自宅から数学を教えられるので、忙しいと言っています。

食糧品以外は、私たちもあまりものを買わなくなりました。

家での食事の支度も疲れることもありますが、美味しい赤ワインとともに、楽しく2人で食べています。

私たちの今後は、天体の影響があることは以前からお伝えてしています。

幸運と苦難(修行)である天体のグレート・コンジャンクションが訪れ、幸運が舞い込むことを期待している人もいらっしゃることでしょうが、その前に、苦難である土星の影響の方が強く感じる人もいらっしゃることでしょう。

土星が意味する今後は、いらないモノを捨てる(断捨離)、物事を建設的に固める、価値観の変更を迫られる等のため、今まで、平和に暮らしていた人には大きな課題(修行)が与えられるイメージです。

私はこれから20年ぐらいは、トランプゲームの「大富豪ゲーム」が始まると思っています。

ですから、配られたカードが良くないものでも、逆転することもあるゲームですから、努力をして来た人には、才能が開花しやすい時期です。

20年前の過去のグレート・コンジャンクションからの延長が始まる予感です。

2000年~2020年は技術の大革新が起こりました。

冷戦終了後から、WINDOWS、Macなどのパソコンがさらに進化を遂げました。

日本では年功序列というシステムが崩壊し、オタク系のIT長者が生まれました。

コミュニケーションでは、この20年間が劇的な変化があったと言えるでしょう。

今やスマホは1人一台、インターネットで瞬時に世界と繋がることで、新たな価値を提供できる世の中になりました。

コミュニケーションはインターネットを通じてが当たり前になりました。

また、2011年では、北アフリカ諸国で始まった「アラブの春」。

若い人達によって、SNSのやり取りで、動画投稿サイトでの情報入手で広がりました。

2011年の3月11日は、東日本大震災が起こりました。

革新と破壊を意味する出来事が続きました。

2020年と2011年はカバラ社会数では、「4」です。

そして、天体では、冥王星も含まれ、「トリプルコンジャンクション」が起きました。

グレート・コンジャンクションと冥王星の持つパワーが注がれます。

冥王星という天体が司るのは「破壊と再生」です。

人類が予期していないことが起こることを示しています。             

今回のトリプルコンジャンクションに似ているのは600年前の1445年ではないでしょうか?

世界では、1445年から8年後の1453年、フランス人王朝同士の戦争である百年戦争が終わりました。

その後、革新的な変化を齎しています。

ドイツ出身の印刷業者であるグーテンベルグが活版印刷を発明した年と言われています。

今のインターネットによって、情報交換が出来ることと似ています。

さらに、宗教革命も起こりました。

SNSというツールを使って、「伝道力」を発揮している人も増えることでしょう。

ただ、今回の場合は、GPS機能が付いているので、監視されることになります。

日本では、「下剋上」が始まります。

この20年間は、私の予想としては、国旗に「星や月のシンボル」が多い国ほど、革命が訪れることでしょう。

今の時点で、国旗に星の数が一番多い、米国は革命が始まっています。

英国の植民地だった国も大きく変化して行く事でしょう。

平和的な革命でない可能性があるので、そのような国旗に住んでいる方々は、災難に備えて準備して置くことです。

スイスでは、100%の国民宅には、シェルターがあります。

自然災害よりも怖いことが訪れることをスイス国民は予期しているからでしょうか?

今後、数年間で「風の時代の意識」が社会や職場、学校、友人関係でも変化して行くことになるでしょう。

時代の流れに乗り遅れないためにも、次世代の感覚を身に着けて行くと良いでしょう。

【風の時代の生き方】

・情報、体験、人脈

・移動、流動

・革新

・循環

・ボーダレス

・個人、フリーランス

・横の繋がり、友人、仲間、対等

・心の喜び

・助け合う、協力し合う

・斬新なアイデア、創造性

世界が変化する中でも、あなたは未完成である自分自身の課題を完了することを生まれる前から決めて来ています。

この未完成の課題を完了しないと、魂は向上しません。

それは、「あなたのカルマ」です。

あなたそのモノである、その魂はあなた以上にあなたのことを知っています。

この激動の時代を選んだのも、あなたです。

ですから、もっと、精神的、直感的にあなた自身を意識して下さい。

周りの情報よりも、直感やフィリーングに耳を傾けて下さい。

絶対的なポジティブシンキングによって、あなたの人生の流れをスムーズにして行く為にも、バランスの取れた生活をして行きましょう。

そして、当たり前のような平凡な暮らしほど、有難いと思うことです。

明日の保証があるとは言えません。

今を大事にして下さい。

長くなったので、次回に、変化のシグナルをどのように対処すれば良いかを綴りたいと思います。

ありがとうございます。

女神の生まれた国より愛を込めて。

カズコ

かつての世界の中心であったと言われるアポロン神殿のギリシャ旅行記

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人生で起こることは偶然はなく、必然的と言われていますが、本当にそうなんだと実感する事が多いです。

先日、2020年に向けた未来予知メッセージを綴りました。

記事を投稿した後に、マイケルから、「僕の写真がアテネで展示されるのが、この日らしく、行こうと思うけど?どうする?」と、聞かれて、同じ時期に、キプロスのパフォスのお城の近くでも、新しい写真の展示と写真の出版記念も兼ねて、エキシビションが開催されるということだったので、体力的にどうだろうと思ってしまいましたが、ギリシャに行って参りました。

私は神々が宿る天空の修道院で有名なメテオラに行きたいと常々思っていたのですが、アテネからは、電車でしか行くことが出来ず、その電車も一日に1本で、片道5時間30分、途中でエンジンの故障もあることもあり、着いたそのあとも、2時間ほど、さらに、修道院によっては、お昼休みと重なったりすると、修道院内の壁画も見られないかも知れないと去年、キプロス人の友人が訪問していたので、「お昼どきは行かない方が良いよ。」と、アドバイスしてくれました。

体力的に電車に10時間以上乗っていることを想像すると訪れる前から無理そうだったので、メテオラに行くならば、テッサロニキ経由で行くのが近いとギリシャ人の友人も声を揃えていうので、エキシビションの初日後、遅いディナーでギリシャに行くことを話していると、周りにいたキプロス人とギリシャ人の写真家の先生にも、「デルフィに行くと良いよ。」と言われたので、「デルフィ?」「島の名前、どこの島」と聞いて、マイケルは目をキョロキョロさせていました。

「君のような人が紀元前にデルフィに大勢いたんだよ。」と、言われて、「アテネから近いの?」と思いながら、インターネットで検索していると、何と、「アポロン」と関係があるので、なるほど、アポロンからメッセージを貰ったということは、お礼参りに行かなければならないことになったと確信しました。

ただ、今回の旅はアポロン神託に行くことではなく、マイケルの写真が展示されているギャラリーにも行く予定があったので、予定は未定でした。

アテネに住むマイケルの妹からも着いた日に、ランチにお招きされていたので、滞在する場所のアパートに荷物を預けて、タクシーを拾い、義理の妹宅へスムーズに行けると思いきや、乗った瞬間、運転手のおじいさん、多分、80歳以上、会話もとろとろして、住所を見せたら、硬直してしまい、ギリシャ人の義理の弟にマイケルが電話をかけて、説明して貰っているが、全然、会話が捗らないまま、見覚えのある場所まで行ったが、分からないというので、電話をかけて、説明して貰うけど、分からず、近所らしい人に、タクシーのおじいさんが訊ねていたけど、会話が成り立たない、コスタ(義理の弟)が車で迎えに行くから、というので、タクシーを降りました。目的地に着かないままのタクシー、驚きました。

すぐ、後ろを見ると、車で迎えに来てくれたコスタがいたので一安心しました。しかし、車の免許を保持しているおじいさんタクシー、南側の欧州人はアバウト過ぎてびっくりです。

義理の妹と挨拶して、座った瞬間に、彼女が作った料理が出て来て、美味し過ぎるので、食べ過ぎてしまい、数時間後のランチを終えて、次に向かったところは、姪っ子が双子ちゃんをイースターに産んだので、訪ねることになりました。

流産しそうになっていたので、元気に可愛い双子の女の子たちにも会い、今年結婚する予定でいた婚約者、そして、彼の家族とも会うことに、話には聞いていたが、身長が高い、2メートル以上はありそうで、体型がまさに、紀元前の彫刻のような筋肉もあり、まさに、彫刻の模型、古代考古の博物館で見た3Dのような堀の深い体型、また、ギリシャ人は女性も身長が高い人が多く、遺伝子が違うとこうも違うのかと思ったりしました。

赤ちゃんの名前を聞くと、ギリシャでは、洗礼されるまでは、名前がないらしいので、赤ちゃんを「ベイビーA ベイビーB」と呼ぶらしいので、驚きました。

来年には、結婚式をするので、その後、名前が正教会で登録されて、初めて、その子たちの名前になるらしく、文化の違いを感じました。

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それまでは、名無しなの?と、驚きました。

しかし、天気予報では、肌寒い、曇り、雨とかでしたので、最後に、軽めの冬物とジャケットも無理矢理押し込んだのですが、現地は夏でした。

暑すぎ、観光客の女性達のタンクトップでうろうろしていました。

数年前にアテネを訪れたときは、肌寒かったのですが、夏は暑く、秋がなく、冬が極寒になりつつあります。

今回はアパートを借りることにしました。

広くて、天井が高く、観光地で、歩いてすぐのところにお土産屋さんや、レストランもありました。

ぶらぶらしていたら、観光会社の女性に声を掛けられて、名刺をもらったので、次の日に写真の展示されているギャラリーに行き、そのあと、デルフィに行きたいというと、予約して貰いました。

「朝8時30分にどこどこに来て下さいね。」と、言われて、その後、インスタグラム映えするバーで古代ギリシャの赤ワインで有名な場所からのワインを一杯のみ、アパートに帰り、巨大なテレビが、2台もありました。

普段、テレビを見ず、スマホやipadで動画を見るのになれているので、これだけ大きいと逆に目が疲れます。

さて、いよいよ、デルフィ遺跡に行く観光バスに乗ることになりました。

バスにはすでに、大勢の観光客の方々が乗っていました。

多くのフランス語を話す観光客がいたため、ガイドさんは、英語で話し、フランス語で話すというギリシャ人のツアーガイドさんでした。

どうしても、多語学ですと、2度、同じことを説明するので、聞く側も疲れました。

私は海育ちで海派ですが、デルフィに行く途中の山々は、神々しい景色が続き、山の素晴らしさに魅力されてしまいました。

オリンパスが住んでいた山を訪れたことがありますが、デルフィに行く途中の山々は、ギリシャ神話のイメージにぴったりです。

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デルフィ遺跡は、世界の中心とさえ呼ばれていました。

その場所は、古くから預言の神様であるアポロンが崇拝され、お告げを受け取れることができると信じられています。

紀元前11世紀に、このような場所に神殿や宝庫を建てる技術があったことに驚きました。

もともとデルフィでは大地の女神ガイヤが敬われていたそうですが、最高神ゼウスの息子アポロンが母レトの出産を妨げようとしたガイヤの息子で大蛇のピュートンを矢で殺したことから、以来アポロンが神託を行うようになったと伝えられています。

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古代ギリシャ人にとって、アポロンはゼウスの子というだけではなく、理性と調和を備えた尊敬すべき存在であったためでしょう。

なぜ?デルフィは「世界の臍」と呼ばれたのか?

調べたところ、大地の中心を決めるため、最高神ゼウスが地平線の両端から放った2羽のワシが出会ったところがデルフィだったと伝えられています。

オンファロス(世界の臍)と呼ばれる神聖な石で、冥界の神々たちを封じるために、デルフィはギリシャの中間に位置しています。

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大地と空、山々が神々しく、なかなか、このような景色は見ることが出来ないですね。

アポロン神託を眺めていると、行き成り、どこからともなく、茶色イヌがアポロン神殿を横切りました。

ギリシャの神々は、何にでも、変わることが出来るので、ギリシャ神話の神様の化身だったかも知れません。

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その後、探してみましたが、その犬はどこかに行ってしまいました。

そのアポロン神託でのお告げをしていた巫女ピューティアは大地の裂け目から噴き出す白い煙(地震によってできた裂け目から立ち上がる蒸気のこと)を吸ってトランス状態になり、アポロンと交信していたそうです。

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アポロン神託にいると、神様の存在を否定できなくなります。

アポロン神殿は、長さ60メートル、幅23メートル、38本のドリア式列柱が前室、内室、後室を取り囲む典型的な様式にて、内室にはアポロン像が立ち、前室の地下にあるオンファロスの上で神託が行われていたそうです。

今現在の神殿は、紀元前370年頃のものだそうです。

紀元前6世紀頃には、すでにアポロン神殿が建築され、信仰と神託は全世界に広まったと言われています。

そのアポロン信仰は、ガイヤに代わり、紀元前11世紀頃から、ギリシャ全土へと浸透していき、紀元前8世紀頃は、宗教の中心地として、ギリシャの重要な戦いのときは、巫女にアポロンと交信して、お告げを授かっていましたが、ビザンティン帝国テオドシウス帝が異教禁止令を発令した394年まで続いていたそうです。

博物館にも行きましたが、よく観光バスが行くような土産店とかにも連れて行かれると思っていましたが、それもなく、博物館から出るときにあると思っていたお土産店は、他の敷地にあったため、断念しました。

バスがすでに来ていたので、それに乗って、遅いランチ、前菜、サラダ、メインコース、スイーツも出て来ました。

ギリシャ料理はハーブも使っていて身体に良いけど、ついつい、食べ過ぎてしまいます。

その後、こじんまりとした山あいの小さな町に立ち寄り、その後は、バスに乗ったところまで、私は爆睡していました。

最後に、デルフィ市と南砺市は姉妹都市らしいです。

富山県は訪れたことがありませんが、きっと、デルフィと同じような街並みなのかも知れませんね。

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短い旅でしたが、素晴らしい波動に包まれ、また、最近のアテネは活気がありました。

観光客で賑わう場所と共存した古代遺跡、そして、哲学という偉大な知恵を教えてくれたソクラテス、プラトン、アリストテレスのような天才が生活していた場所は、去年、訪れたヨルダンのペトラとはまた異なり、鮮やかなコバルトブルーを見ているだけも癒されました。

アポロン神殿に立った際に、受け取ったメッセージは、「バランスの取れた生活をするように、伝えて下さい。」でした。

私たちは、AI、IT、進化する中で生きています。

バランスの取れた生活は、地に足がつき、活気があり、愛に溢れ、表現豊かであり、洞察力にすぐれ、生活のあらゆる場面で、スピリチュアルに導かれることでしょう。

このような感覚を持つことで、人生は喜びであり、あなたの周りにいることを喜び、そして、あなたが「あなたらしく」生きることが出来るでしょう。

バランスの取れた生活は、意外と出来ているようで出来ていないこともあるでしょう。

精神性と肉体のバランスが取れることで、あなたを素晴らしい生活へと導いてくれることでしょう。

大切なのは、勝利するためではなく、前進するために、スピリチュアリストになることです。

正しいバランスの到達は、合格しなければならないという試験はありません。

素直な気持ちで、自然界と調和し、本当のあなたになることに気づくことで、それが成功へと繋がることを実感出来るでしょう。

あなたに神様の恩恵がたくさんありますように。

ありがとうございます。

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国際占い師カズコ⭐️YouTube

※機会があれば、アテネの国立考古博物館の画像もYouTubeにアップしたいです。

世界七不思議のペトラ遺跡旅行記

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今年は久しく旅行していない中東に行くか、アフリカのモロッコに行くか悩みました。

モロッコに行くには、イタリア経由で行くのが、ここキプロスからだと好きな経由なのですが、モロッコのベストシーズンは10月半ば、イタリアはこの6月に行ったので、パフォスに引っ越す前にヨルダンに行く計画を立てましたが、色々と検索している間に、モーゼが十戒を受けた場所やパレスチナも含めて、エルサレムに行きたかったので、その後、機会がなく、エジプトに行ったりしている間に、シリアでの内戦も始まり、とうとう、中東に行く機会がないかな?と、思っていたのですが、やっぱり、なぜか?ペトラ遺跡を見に行きたいという気持ちが強くなり、世界七不思議の1つであるペトラ遺跡に行くことになりました。

旅と言うのは、宿探しから始まります。

パフォスの旅行社にヨルダンツアーを訊ねたのですが、皆さん、個人で行かれる人が多い様子でした。

ヨルダンはキプロスと同じで、電車がありません。

ですから、交通機関が車となります。

7月下旬に友人が3日間ほどペトラ遺跡と死海に行ったというので、交通手段はどうしたのか訊ねたところ、レンタカーを借りて、アンマン国際空港から、ペトラへ移動し、その後、死海に行ったという話を聞きました。

その時点で、ペトラ遺跡の宿泊先を探していましたが、10月半ばは4つ星、5つ星ホテルには、その彼らが泊まった値段では、1つ星ぐらいしかありませんでした。

ペトラ遺跡のゲートから徒歩で行けるホテルに予約を入れました。

3つ星ホテルで、レビューも良かったので、それにとても安いので、3泊が死海の1泊と同じ料金だったので、そこのホテルに泊まることに決めました。

その後、アメリカドルやヨルダンの通貨を銀行で手配して貰いました。

先進国よりも通貨が強く、驚きました。

予約先のペトラのホテルから連絡があり、空港へのタクシーでのお迎えを提案されました。

一番の問題が交通手段だったので、アンマンに1泊して、その後、ペトラに移動する為には、1日1本のバスがあるらしく、そのバス停に行くにはどうすれば良いかとか、悩んでいたので、料金も提示してくれたので、お願いすることに致しました。

料金もインターネットで検索しているよりも半額近く安く、ボロボロのタクシーでも目的地に着ければ良いかな?と思い、予約をしておきました。

ほぼ旅に出かけるときには、ガイドブックも買わず、何も学ばないまま行くという2人なので、今の時代は、どこでもWIFI環境もあるだろうとのんきにしながら、1週間の旅行の3時間前ぐらいに、暑いのか寒いのか分からないまま、傘とかも必要かどうか分からず、スーツケースに詰め込んで行くことにしました。

空港近くに車を止めて、そこから、送迎してくれる人に空港まで送って貰い、スーツケースを車から降ろすと、「ヨルダンはビザが必要だよ。だから、ヨルダンパスとか先に購入して置くと良いらしい」と言われて、マイケルも私もパニック、「空港で買えないの?」と、聞くと、イギリス人のその人は「僕は行ったことがないから、奥さんが行って、色々と大変らしかったらしいよ。」と、キプロス人の奥さんとマイケルが話し、「どうする?」と、聞かれて、私は「ビザの事は日本人のブログとかでは触れていなかったし、現地で大丈夫ではないのか?」と、言って、飛行機に乗り込みました。

パフォスの気温は夜でも30度以上だったので、炭酸飲料を機内で飲んでいたら、着きました。

1時間ちょっとで、意外と早く着きました。

アンマン国際空港は広くて綺麗でした。

イミグレに行き、マイケルはビザを購入しました。

日本のパスポート保持者はビザが無料と、驚きました。

その後、荷物を取りに行き、空港にお迎えに来ているハイヤーの運転手さんと会い、ペトラへと向かうことになりました。

既に、午後10時半ぐらいで、マイケルは助手席に座りました。

ボロボロの車かと思いきや、新車らしく、とても綺麗で、この車で空港からペトラまで、3時間半を行くのに掛かるガソリン代の方が高いのではないか?と、思うほど、ドライバーさんは「ペトラから来ました。3時間半待っていました。」と、笑顔で対応してくれました。

車の中でも、WIFIが必要ならば、使えると言われて驚きました。

夜だったので、周りがどんな風景かも分からず、29歳のヨルダン人のドライバーさんは、英語がある程度話せたので、色々と話しをしながら、途中、トイレにも行き、真夜中のヨルダンでのドライブをしながら、4時間以上、掛かり、ホテルに行く途中に、夜景が綺麗な場所に連れて行って貰い、漸く、ホテルに着きました。

チェックインをしたのは、午前1時頃でした。

朝一番に、暑くなる前に、ペトラに行きたかったのですが、朝方、午前5時ぴったりに、モスクからチャントが流れて来て、目が覚めました。

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マイケルに、「チャントが流れ来てから、一緒に歌っていたよ。」と、言われて、意外と好きなチャントなのでしょう。

目覚ましを掛けないで、眠りについたので、起きたときには、8時頃でした。

夜は温度が10度ぐらいで、毛布が絶対に必要でした。

朝食を食べにレストランに行くと、色々な人種の人達が静かに食事をしていました。

その時点でも、どこへ向かえば、ペトラ遺跡の入口ゲートか知らないまま、バックに水を入れて、ダララダと歩き始めました。

 

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ドライバーさんが言うには、10月は観光客が10倍増えると言われているので、宝物殿は人で溢れていると言っていました。

ビジターセンターで、チケットを購入しました。

予想はしていましたが、2人で2日間分とペトラナイトも含めて、36000円ほどでした。

1日分と2日分の違いは、500円ほどですが、ペトラナイトに行くには、入場チケットが必要になるので、同じ日でなければ、どうしても、数日間有効のチケットを購入する必要があります。

ペトラ遺跡は1985年以降、ユネスコ世界遺跡に登録され、2007年7月7日、ポルトガルのリスボンで、新・世界七不思議の1つに認識されました。

ペトラはギリシャ語で、「石」と、言う意味があります。

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日本人のブログでは、岩や崖とか、色々ありますが、小さい石も大きな石も「ペトラ」です。

多分、アフロディーテの生まれた場所がペトラ・トゥ・ロミウと言われていて、ペトラを英語で岩と言っているため、石から岩になっているかも知れません。

さて、そんなペトラの歴史に触れてみましょう。

古代都市ペトラがどの時代に建造されたのかはっきりしないままらしいです。

紀元前1世紀以降には、乳香、没薬、香辛料などの貿易で富を蓄えたネバタイ王国の首都として、ペトラは歴史に示されています。

ローマ帝国に併合された後も、ペトラは繁栄したそうです。

しかし、363年に発生した大地震により、ペトラは壊滅的な被害を受けた後、その頃、貿易路が変わり、ペトラは没落した後、ペトラの町も衰退したと言われています。

その後は、地元のベドゥイン以外には忘れさられた遺跡となっていました。

1812年に、スイス人探検家によって、ペトラ遺跡を再発見されることになります。

それまでは、ベトゥイン以外は、ペトラ遺跡に入ることが出来なかったらしく、スイス人の探検家がベトゥインを説得して、ペトラは魅力的で美しい古代都市として、世界の人々、特に、西欧の人々の知ることになって行きました。

ペトラ遺跡の宝物殿を一躍有名にした映画があります。

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インディアナ・ジョーンズで、この巨大な宝物殿を撮影に利用したこともあり、ペトラ遺跡と言えば、この場所になります。

ペトラの町には、神殿や劇場もあり、ローマ帝国の併合後には列柱道路、また、ビサンチン帝国の影響での時代には、修道院が建設されています。

広大な場所で半日や1日では、全てを見て回ることは出来ないでしょう。

すべてをロバや馬に乗らないで歩くとなると、体力が入ります。

夜は気温が10度でしたが、日中は30度ぐらいになっていました。

日陰にいれば、それほど暑くなかったです。

宝物殿辺りで写真を撮っていると、ベトゥイン人の若い男性や子供に声を掛けられます。

マイケルは写真が撮りたいので、徒歩ですべてを廻りたい派ですが、私はラクダとかに乗りたい派なのですが、驚くほどの値段を吹っかけて来るので、適当に断っていました。

しかし、何度も、何度も、同じ人に、「ロバに乗って、修道院に行かないか?」と、声を掛けられている内に、私がロバと一緒に写真を撮っていると、「ロバに乗って、上まで行こうよ。安くするからさぁ。」と、言われて、値段を聞くと、エジプトでラクダに乗ったときよりも高い値段でしたが、乗る事にしました。

マイケルが乗ったロバと馬とのハーフは賢そうな風合いでした。

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私の乗ったロバは、どうやら、この馬に負けまいと対抗心があるのか、人が歩いているところでも、押しのけて登って行くため、ハラハラドキドキでした。

何度も訓練されているのでしょうが、時間内に850段の階段というより、石、石の連続で、綺麗に整備されていないので、もしも、ロバが一歩でも、階段を踏み外してしまうと、振り落とされて崖へと落とされてしまうかと思うと、ジェットコースターよりも心臓に悪いと思えるほどの勢いでした。

それに、兎に角、人を押しのけて登ろうとするので、何度も他の人に謝り続けることになりました。

喉が痛くなるぐらい、謝り続け、行き成り、動かなくなったので、停留所だと分かりました。

一緒に来ていたベドゥインの若い男性は、毎日、何度もこの階段を上がり下りしているのかと思うと、感嘆してしまいました。

やっと、ロバから降ろして貰い、徒歩で修道院に行くのですが、足ががくがくして、歩くのが困難になりました。

エド・ディルという修道院に到着しました。

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ナバタイ王国最後の王ラベル2世の治世に建造された修道院には、背後部の壁面には十字架が刻まれました。

それが、修道院の名前の由来だそうです。

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ペトラには、教会もあります。

ペトラで物を売ったり、ロバやラクダなどに乗って案内してくれる人は、ベドゥインで、風貌がジョニーデップ似で、ヨルダン人とは顔が異なるので、その背景には、サウジアラビアから難民として、ペトラの町に住み着いたらしく、鼻筋の通っていて、ハンサムな遺伝子なのでしょう。

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英語も完璧に話すことが出来るので、「どこで、英語を勉強したのか?」と、訊ねると、「観光客から」と言っていました。

以前は、ペトラ遺跡の洞窟辺りに寝泊まりしていたそうですが、その後、政府がペトラから少し離れた場所に家を建て与え、住んでいるそうです。

子供たちの姿が気になったので、学校には親が行かせず、行ったとしても、数時間で家に帰らせ、観光客に物を売ったりしているそうです。

学校に行かせる時間が特に、ピークシーズンでは勿体ないと言っていました。

修道院から降りて来る時は、徒歩で帰るからと言ったのですが、ロバたちも待っているからと、言われ、降りるときは、登るときよりも、更に怖く、すべらないか、また、他の観光客を押しのけて、スタスタと行くのですが、心臓に悪い体験をしました。

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宝物殿まで、ロバに乗って帰りました。

宝物殿辺りは、太陽が遮断されているので肌寒く感じ、夕方近くになって来たので、その日は、ペトラ遺跡を後にしました。

夕飯探しに困りました。

マイケルも私も中東の香辛料は苦手で、マイケルは和風ベジタリアンなので、魚は食べるのですが、肉料理はダメで、豆系も香辛料が強いと、食べられません。

ホテルのレストランを見たのですが、ヨルダン料理過ぎて、朝ごはんと同じような感じで、止めました。

うろうろと、近所のレストランを見て回りましたが、肉料理ばかりだったので、他のホテルで食事をすることにしました。

バイキングで料理は豊富なのですが、サラダにも肉が含まれているものが多く、野菜スープとトマトとレタス、デザートはカラフルで美味しかったです。

外国人の観光客が出入りするところでは、お酒も支給してくれます。

ただし、値段は欧州の2倍から3倍は覚悟した方が良いです。

イスラム教徒はお酒を飲まない代わりに、タバコや水タバコを吸っています。

タバコも安い様子ですが、吸わない人に取っては、レストランやカフェでも隣で座れてしまいます。

その日は、疲れたので早く寝ました。

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同じ時間になると、モスクから聞こえて来るチャントで一度、目を覚ましました。

うとうとしていると、また、大きな音が流れて来ます。

アラームセットをしていないので、7時半ぐらいに起きて、身支度を済ませて、レストランに向かいました。

初日にある程度、回ったのですが、他に行くところもないので、ペトラナイトも行く予定でいたので、ゆっくりと、ペトラ遺跡にあるカフェでお茶をしようと思いつつ、シークを通り、宝物殿に行くと、前の日に、「こんな写真撮れるよ。」と何度も近づいて来たベドゥインの男性、マイケルも「行かないから・・・。」と何度も振り放していましたが、交渉が上手いのか、「安くするから・・・。」の言葉に乗せられて、行くことに、自分達で行けるからと言うと、「ここに行くには、僕たちのガイドの許可が必要だから、そこへはいけないよ。」と、言うので、「どうして?」と、訊ねると、「僕たちの領域だから・・・。」と、答えられました。

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根負けしたので、「分かった。行くよ。」と、言われて、通されたところは、何と鉄格子が壊されたところで、普通に、階段を登って行くのかと思いきや、岩、石、階段らしいものはなく、背丈よりも高いところによじ登る、そして、スライドして降りたり、登ったり、塀みたいになっているところもあり、絶対に無理だと思えるところもありましたが、手を引いてくれ、マイケルにも押され、よじ登り、10分で行けると言っていましたが、よろよろしながら、30分以上は掛かっていました。

到着すると、もう、凄い迫力で宝物殿を見下ろすことが出来ます。

写真をスマホで撮影したいたら、マイケルに、そこは危ないからダメと言われて、安全な場所に移動することになりました。

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一歩間違えると、奈落の底に落ちてしまうことになりそうでした。

そんな最中に、フランス語を話す若い男性2人が到着、1人は崖っぷちで写真を撮って貰っていましたが、もう一人は、私が座っていたかなり安全な場所でも、「絶対に無理!」と、友人と言い合いになっていました。

もう一人は、片足で立って、背景が宝物殿で、嬉しそうでした。

その後、カップルがガイドさんにこんな感じで写真を撮って貰っていました。

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足が長くないと、この体制で写真は撮れないと確信できるほどです。

座って汗を拭いていると、足をふらつかせた中国人の女性とガイドが到着しました。

行き成り、私を見た瞬間、「どこから来たの?」と、聞かれたので、キプロスを知らない人もいるので、「日本から」と、応えると、「この人がガイドさん?」と、マイケルを指さして聞かれたので、「いや、主人です。」と、答え。そのまま、ガイドさんに崖の近くに連れて行かれて、写真を撮られていました。

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すこし涼んだので、降りる事にしました。

同じように、よじ登ったり、降りたりと、Tシャツもジーンズも赤い土だらけになりました。

これを一日、1回でも遣れば、身体全体の筋トレになりそうだと思えるほど、辛かったです。

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すこしチップも渡し、その後、また、お決まりのロバやラクダに乗れ乗れ攻撃が始まりました。

足をふら付かせながら、ゆるゆると歩いていると、先ほど会った中国人がロバに乗って、「ハロー」と、声を掛けられました。

その後、初日に美味しかったので、ザクロジュースを涼しいところで飲んでいると、また、ロバに乗って修道院まで行って来たのか、中国人女性がシーク方面に向かっていました。

彼女曰く、「ペトラは3時間だけなの~」と、言いながら、通り過ぎていました。

私たちは、列柱道路、ニンファエウム(水の妖精の泉)、王家の墓、大神殿などを見て回り、夜にもペトラに帰って来るので、早めの夕飯を取ることにしました。

外国人がビールを美味しそうに飲んでいるので、その場所で軽くスナックを食べることにしました。

私はコーラとチキンを食べることにしました。

マイケルは、チーズサンドイッチとビールを飲むことにしました。

コーラは甘くて、炭酸が抜けている感じでした。

マイケルは欧州でいうサンドイッチでなく、コッペパンに、チーズがトッピングされた物で、驚いていました。

給食で長い間食べ続けたので、私も苦手です。

マイケルはコッペパンが苦手で、チーズを摘まんで食べていました。

この量で、料金は、7000円ほどでした。

欧州でも、2000円ぐらいでしょう。コーラの缶がそのまま出て来て、800円ぐらいでした。

夜は寒くなると思い、冬用の服に着替えにホテルに帰りました。

ロッククライミング級で崖から見渡す宝物殿とすでに、2日間で歩き回ったため、筋肉痛、また、歩いて帰り、「夜は、あの馬に乗ろか?」と、言いながら、時間前に入場して、またも、宝物殿まで歩いて行くことに、あの馬車は利用できず、歩くことになりました。

キャンドルが道端に敷かれており、幻想的で綺麗でした。

やっと、宝物殿に到着し、行き成り、暗闇で座った途端に、顔も見えないまま、「早く、早く」と、急かされて、お茶を配って貰いました。

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その時期のイベントで異なるのでしょうか?

1人の男性が歌を歌い、朗読したりしていました。

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その後、目を瞑るように言われ、「願い事をして、目を開けて下さい。」と、言われて、目を開けると、宝物殿がLEDライトで色々な色に変わりました。

LEDライトが利用される前は、どんな感じだったのでしょうか・・・。

30分ほどで終わり、また、ホテルまで歩いて帰ることに、両足に豆が出来ていました。

身体も腰、手足も、筋肉痛になりました。

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きっと、その日は、本当に疲れていたのでしょう。

午前5時になっても、目を覚まさなかった様子です。

ゆっくり起きて、朝ごはん、ほぼ、食欲がなく、ピタパンとひよこ豆のフムスばかり食べていました。

ペトラ遺跡から死海まで3時間ほどと言うので、のんきに11時頃にタクシー運転手の来て貰っていました。

高速道路ではなく、違う道を通ってくれているらしく、ヨルダンは広いということを実感しました。

また、ペトラはあの独特なバラ色の石で成り立っているのだと感心しました。

他は白い砂や石で出来ていて、山らしいところもなく、暑かったです。

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死海のホテルに行く前に、セント・ジョージの教会に行って貰うように頼みました。

行き着いたところは、セント・ジョージでなく、ネボ山と言うところに連れて行かれました。

モーゼが神から授かった「約束の地」を見下ろしながら息を引き取った場所があります。

エジプトのファラオに虐げられたイスラエルの人々を率いてエジプトを脱出し、彼らを約束の地カナンへと導いた預言者、モーゼは、昔、神に背いた罰のせいで、カナンの地へ足を踏み入れることは出来ませんでした。

このネボ山から、約束の地である、「エルサレム」を見渡すことが出来ます。

ネボ山の頂上には、4世紀ごろから教会が作られるようになったそうです。

そこで、ビザンチン時代のモザイクが多く残っています。

ヨルダンでは、モーゼ、ユダヤ関連は無いだろうと思って頂けに、タクシーの運転手に連れて行かれて、驚きました。

シナイ山にも、行き、負の遺産であるアウシュビッツも行きました。

まだ、モーゼとはご縁が続くのでしょうか。

死海のホテルには5時頃に着きました。

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海側のお部屋に通して貰い、プールや死海で泳げる時間を訊ねると、1時間ほど時間があるので、急いで、死海に向かって降りて行きました。

イスラエル側で死海は、ソルトロックで足をマイケルは切ってしまったので、念のために、専用の靴を履いてヨルダンの死海に入りました。

ヨルダン側は、イスラエル側とは異なり、透明感がなく、泥と灰色の石でした。

周りには、日本人観光客も多く、お決まりの本を死海でぷかぷかしながら読みポーズを写真に撮っていました。

私は、スマホを持って行くと、落としてしまう気がしたので、1枚も死海での写真は撮りませんでした。

死海でのホテルは高級でもありませんが、とっても高く、スーパーマーケットもなく、夕飯込みで泊ることにしていました。

食べる物があまりなかったので、カラフルなケーキばかり食べておりました。

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マイケルは1本ビールを頼んでいました。

1本、2000円ほどです。

びっくりするほど高いです。

売店もないので、お水もバーとかで1本600円ほどしました。

スイス並に何でも高いので、本当に驚きました。

次の日も、夕方まで時間があったので、タクシー会社に連絡して、セント・ジョージ教会に行くことにしました。

死海から車で50分ほどの場所に近づくと、建物の雰囲気が変わって来ました。

見慣れた風景の建物は、ビサンチン時代に建てられたものでした。

教会の敷地内は、とても静かでした。

セント・ジョージ教会には、世界で一番古いモザイクで作られたパレスチナ周辺の地図が床に保存されているのが有名です。

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今のエルサレムになります。

以前、イスラエルに行ったときに、ヨルダン川の魚の瀬戸物を買ったのですが、空港でスーツケースを開くように言われて、収めるときの具合が悪かったのか、割れていました。

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魚のシンボルは、生命の樹とともにキリストを表わす2匹の魚で有名です。

帰る途中に、モザイクアトリエに連れて行って貰ったので、大き目なのが一番好きな魚で、イスラエルで見たモザイクと似ていたのですが、とても高く、小さめのモザイクの魚はシシャモのように、やせ細って、これはちょっと違うと思い、思い切って、大きい目なのを購入しました。

ホテルに帰り、夕日が沈む前に、死海で再度、ぷかぷかすることにしました。

泥を身体中に塗り込み、しばらく経って死海で洗い流すときに、目に1滴の死海の水が入り、目が痛い、本当に痛い・・・。しばらく、痛みと戦いながら、タオルで拭いて、ぷかぷかして、シャワーを浴びて、あまり期待していないディナーに行くことにしました。

マイケルは、ほぼ、スープぐらいしか食べる物が無かったので、スープを美味しそうに食べていました。

私も食べ始めると、スープの中に、牛肉があったので、それを教えると、中断していました。

野菜のグリルとトマトを食べていました。

行き成り、動作が凄いのでどうしたのか聞くと、緑色の唐辛子のグリルを口にしたらしく、そんなに辛いのかと、私も1センチほど口にしてみました。

もう、言葉が出て来ないぐらい辛かったです。

甘い物ばかり食べて、甘い砂糖入りの紅茶ばかり飲んでいたので、私は、痩せるどころか太っておりました。

マイケルは、1週間で2キロ以上痩せていました。

死海からアンマンに移動しました。

ペトラ遺跡を見た後のアンマンでの観光はあまりないです。

スケールが小さいため、観光客がパスするぐらいです。

マイケルはヨルダンに行く機内で、砂漠の話をするので、「言ってくれれば、変更したのに。」と、言うと、「好きじゃないでしょう?」と、聞かれたので、アンマンで市場に行くよりは、砂漠で夜空を見たかったと言い返すと、ちょっと、残念そうでした。

観光箇所を廻っていたら、チケット購入場所で、若い西洋人の2組のカップルから「昨日、死海で会いましたね。」と、言われて、「へぇ?」と、返答に応えていると、彼ら達はヨルダンに2週間いたそうで、ほぼ、砂漠にいて、その後、死海と、アンマンに1泊滞在して、アムステルダムに帰ると言っていました。

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マイケルが「砂漠では何をしていたの?」と、訊ねると、「毎日、水パイプを吸っていたわ。」と、オランダ人の女性が言っていました。

とっても、行きたかったような顔つきで、話していました。

アンマンは市場に行ったり、モスクに行ったりしました。

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本当に行くところがなく、カフェもタバコの煙や水パイプの煙でもくもくしているので、オランダ人のカップル達のように1泊でも十分かも知れないと思いました。

ヨーロッパの方が安く感じるというほど、ヨルダンは物価が高い場所でした。

もちろん、中東料理が好きな方とかには、問題ないのでしょうが、独特の匂いは、なかなか、微妙です。

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とっても、楽しかった旅ですが、食べ物はイスラエル側では、パンプキンスープ、ベーグル、スモークサーモン、サラダも豊富でした。

でも、異なる文化を体験出来たことは良かったです。

長い旅行記をお読み下さり、ありがとうございます。

ありがとうございます。

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命より大事な物はない!

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こんにちは!

尋常でないほどのこの度、西日本を中心にした大規模豪雨にて、被害を受けられた方が、ご家族の皆様へ、心からお見舞い申し上げます。

一日も早く、平穏な生活に戻れますよう、心からお祈り致します。

私自身は海外生活が長いのですが、スマホ設定には、故郷の天候状況を設定しています。

先日、兄の誕生日で、連絡を入れたところ、「雨が降っているだけで、何も変わらない」と言っていたので、避難指示が出ていたり、警報がスマホに送られて来ていましたが、これまでの経験から、これほどの被害が出るとは思っていなかった様子です。

次の日に、ニュースを見ていると、豪雨で家が陥没している状態だったので、慌てて、電話をしたのですが、連絡が取れず、姪にSMSでメッセージを入れたのですが、返信もなく、何度か、連絡を入れて、日本時間が午後10時頃に、携帯に兄が出たので、家族の安否確認をしたところ、問題ないとの事でした。

東日本の大震災の光景と似ている状態だったので、豪雨で家が浸かるほど、誰が予想したでしょうか?

避難所に行くのかと訊ねると、「どこも断水しているから、家に居る方が落ち着く」と、言っていました。

断水になっているという情報を理解するまで、時間が掛かった様子で、近所のコンビニやスーパー等を廻ったらしいですが、水は完売していたので、お茶とジュースを買ったそうです。

食料品も何もなく、仕方なく、状況を把握していないレストランでピザを食べたらしく、断水になっているという知らせがあったのは、夕方になってからだったようで、トイレの水も無いので、外出して、トイレの水が流れるところに行ったり、水を確保しに行ったりしたそうです。

私の故郷は、アナログな場所も多いので、井戸があるところが多いので、断水後も、井戸を解放しているところもありました。

兄が住んでいるところは、被害は無かった様子ですが、兎に角、水がないということで、移動するにも、電車も運行していない状態で、車で、移動しようとしても、通行止めになっていたらしく、身動きが取れない状態だったらしいです。

来週の月曜日頃には、断水が解除される予定らしいですが、復旧までには時間が掛かりそうです。

私の故郷と、隣の県は、比較的、自然災害に遭わないというイメージが強く、地元の人達も避難するよりも、家で待機している方が良いと思った人が多いと思います。

深夜遅く、警報が出ても、お年寄りは寝ている人が多かったでしょうし、避難すると言っても、あれこれと準備をしている間に、水位が上がり、身動きが取れない状態になってしまったことでしょう。

あるテレビ番組で、息子さんが、避難しようとお父さんに促していたのですが、なかなか、決断が出来ないまま、次の日の朝、お父さんを説得して、避難しようとしても、電気製品が気になる様子で、大型テレビを2階に持って行っている間に、水が家の中まで、入り、お父さんもやっと、避難することに同意したときには、外の水嵩は1メートルになっていました。

他のテレビ番組では、防災パトロール中の男性の車が水に浸かり、水の圧力で、ドアも開くことも出来ずに、パニックになってしまい、若い男性が車から出るように伝えるのですが、どうしていいか分からない状態に陥ってしまい、窓から、引っ張り出して、助かりました。

私の父も生きていたら、テレビを2階に持って行くお父さんのように、あれこれと、時間が掛かり、説得する間に、喧嘩になり、逃げ遅れてしまう可能性があります。

命よりも大事なものはないのですが、普段の生活習慣から、仏壇をどうにかとか、布団が濡れたら使いものにならないから、あれも、二階に持って行こうと重たい物を担いで体力を消耗してしまい、そのまま、横たわってしまうかも知れません。

あり得ない場所で、あり得ない事が起こることが今回、起きてしまいました。

しかし、命があれば、物は何とかなります。

もちろん、水は絶対に必要不可欠です。

これから、もっと、暑い日が続きます。

一日も早く、穏やかな生活に戻れることをお祈り致します。

被害に遭った方のために、義捐をお願い致します。

個人的に必要のない物を自治体に送るのは控えて下さい。

例えば、千羽鶴、寄せ書き、さらには、洗っていない汚れた服など、もしも、ご自身が同じような被害に遭われたときに、それを貰って嬉しいですか?

相手の身になって下さい。

どうぞ、よろしくお願い致します。

現地で復旧にたずさわっていらっしゃる方々、無理せずに、ご自愛なさって下さい。

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幸運の扉を開くカギのパワーゾーンへの旅に行って参りました。

 

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今年のパフォスでのカーニバルの次の日に、数年前に胆嚢の手術をした後に、傷口が盛り上がって来て、ボタンでこすれて痛痒くなったので、キプロス前大統領の手術をしたという名医のお医者さんに再手術をして貰うために、ニコシアに行く日々が多かったため、今年は旅行に行けないままでした。

私の体質は、ケロイド体質らしく、場所によりますが、胸のあたりの傷と、お臍の中の傷は、少し小さくなりましたが、あまり変わらないです。

最初の手術で糸を使っていたので、気にならなかったのですが、数年後に各火山のように盛り上がり、痛痒くなければ別に良かったのですが、盛り上がり過ぎて、ヒリヒリしたので、手術をして貰いました。

麻酔でお臍をぐりぐりされたときの方が痛く、ドクターの腕を掴んでしまったぐらいです。笑

鑑定の方も休みなく働いていたのですが、やはり、どこかに行きたくなり、今年はイタリアモードでした。

前回のローマの7日間の滞在中に胆石が尿道に移動し、5日間も病院で点滴を受けたりしていたのですが、今回はミラノに決めました。

マイケルの誕生日と、結婚記念日も兼ねて、イタリアに行くことにしました。

マイケルはヨルダンか、モロッコが良いと言っていましたが、6月の中旬の中東やアフリカは暑すぎるので、次の機会に譲ってくれました。

基本、ガイドブックも買わないまま、うろうろするタイプなのですが、今回、ホテルを予約しているとき、ミラノと言えば、名画の【最後の晩餐】を見る事が出来ないか?と、思い、検索していたら、予約制らしく、それも数か月前に予約するらしいので、ダメ元で、チェックしていたら、丁度、最終日に予約を入れることが出来ました。

しかし、イタリア語で、何が書いているのか理解出来ず、まぁ、適当に予約して、ダメだったらダメで・・・。と、思い、予約を完了しました。

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レオナルド・ダビンチの絵は、全くと言って、わざわざ、パリに行っても、ストライキだったり、他の名画もそこにあると情報があるのに、行くと、美術館の工事で、そこにはなく? ダビンチとはご縁がないのか?と、半ば諦めていました。

今回も、壁画を見るために、早く起き、タクシーで15分ぐらいだから、予約していた時間の20分前には、印刷した予約の紙をチケットに交換しないといけないと明記されていたので、30分前までに教会に到着できるように、タクシー乗り場へ行きました。

普段ですと、誰も待っていない光景でしたから、余裕で45分ぐらいあれば、タクシーにて10分プラスぐらいで、行けると思っていました。

しかし、なぜか?スーツを着た人達が同じ時間に、数百人待っていました。

1人ずつ、または、2人ぐらいでタクシーに乗り込むため、全然、前に進みません。

電車でと思いつつ、場所を把握していないので、タクシーの方が良いと思い、30分待って、やっと、タクシーに乗れました。

一度、赤で留まると、次も赤で、その上、混んでいたので、着いたのは、予約していた2分前でした。朝の10時15分から入館できる予定で、時計を見ると、10時13分でした。9時50分頃には到着して置かなけばなりませんが、タクシーに乗ったのが、10時過ぎでした。

グループで入場するらしく、閲覧時間は15分間だけです。

タクシーを降りて、どこに行けば良いかも分からず、紙を見せると、「まだ、2分も余裕がありますよ~?」との答えが、こういうときほど、地中海人の性格だからこそ、すこしおまけしてくれる感じです。

今回もタクシーの中で、やっぱり、ダビンチとは縁はないのね?と、思っていました。

でも、壁画は移動しないので、また、ミラノに来ることになるの?と、思いました。

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今回は、私自身の過去世で生きていた場所に行くことにしました。

天王星が移動したこともありましたので、記憶にある場所に行きたかったのですが、マイケルは「日帰りでも良いのでは?」と、言っていましたが、ミラノから電車で2時間半掛けて、泊らないでミラノに帰るの?と、思い、2日間だけ、ヴェネチアに滞在することにしました。

これまた、ガイドブックを見ない2人ので、電車に着いて、タクシーがある?と思っていたら、ボートタクシーしかなく、インフォメーションセンターの所へ、イタリア人のマダムぽっい女性がそこの行き方だけを教えてくれればいいのに、「どこから来たの?」に始まり、後ろも詰まっているのに、ダラダラと話を続けて、返答する方も早くして頂戴と思いつつ、まだ、終わらない感じでした。

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やっと、満足した話しが出来たのか?

地図に印を付けてくれました。

地図もブックレットを勧められましたが、荷物になるので、普通の地図にしました。

地図代にお金を払い、ボートに乗ることにしました。

荷物は2日間分だけでしたが、自力で歩かないと行けません。

ボートタクシーは高かったので、ボートに乗り込みました。

水のエネルギーが目の前に現れたときは、故郷に帰って来たと思えるほど感動的でした。

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ボートに10分ほど乗って、そこからは、自力でホテルまで、小道と階段を登りおり、何度か、地元に人に訊ねると、気さくに、言葉は分からないけど、ニュアンスは分かる感じで、ホテルに着き、どこかはっきりしないので、地図を見ていたら、ホテルの中から、スタッフの人が出て来ました。

思い切り、教会の前で、分かると思えるのですが、兎に角、道、道、迷路のようで、方向音痴の私には、目じるしにするにも、塀で囲まれていて、一度、迷うと、どこに行っているのかも理解出来ないぐらい中世のヴェネチアにタイムスリップした気分になりました。

ミラノの部屋はモダンな場所を選びましたが、ヴェネチアは、予算の関係もあり、適当に選びましたが、金色と黄色と鏡だらけでした。

広く、こじんまりとしたホテルでしたが、とっても良かったです。

荷物をおいて、一息したら、ランチをしに、水辺の場所に徒歩で行きました。

ゴンドラは30分80ユーロらしく、日差しが強く、イタリアに行く前に天気予報を3か所から見ていた時に、雨、雨、雷雨?温度も、低く、夜も11度?とか、書いていたので、長袖、序に、傘も?と思いつつ、傘はどうしても必要な場合は現地で買っても良いかと思い、荷造りをしたのですが、暑い!空港に着くまで雨が降っていたらしいのですが、晴れました。

それも、暑すぎるぐらい晴れました。

しかし、物価の高さは驚きです。

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ミラノで、最初の日はカンパリクラッシックを飲み、あまりにも、強すぎて、苦みがあるので、アペロールの他のバージョンを飲むことに、メニュには1杯12ユーロと書いていましたが、支払のときに、私がそれを2杯飲み、40ユーロ?訊ねると、「大きいのを飲んだから・・・。」と言われましたが、普通のサイズでした。

次の日に、歩いていたら、凄い大きいサイズのグラスで飲んでいる人がいて、ぼったくられました。

ビールも平均8ユーロから10ユーロでした。

ヴェネチアも同じぐらいでした。

ヴェネチアで飲んでいると、隣の人が巨大なビアジョッキーで飲んでいて、女の子が寝ている片手でグビグビ飲んでいました。

何となく、話始めることになり、その男性はアメリカのコロラドから今日、ヴェネチアに着いたので、奥さんともう一人の娘が買い物中に、ビールを飲みながら、可愛い女の子の子守りをしているということでした。

アメリカ人の彼は、家族でヴェネチアに来たのは初めてで、それも、5日間だけだけど、家から26時間、乗り換えで来たらしく、普段はプライベートのパイロットで、国内を飛んでいるらしく、電車に乗るのが趣味らしいので、今回も他にも行くけど、電車移動らしいとのことでした。

イタリアの新幹線みたいのを私もネットで予約しました。

国営らしい新幹線もありましたが、ミラノからヴェネチアまで2時間半だし、ペイパルで支払出来る会社にしました。

日本で言えば、指定席でした。

値段も安かったので、飲み物も無料で2度ほど貰いました。

電車の中でも、無料でWIFIが使えるので、快適でした。

私にとって、今回のイタリア旅行は、故郷に帰れた気分にしてくれた上に、満喫出来ました。

パフォスに帰ってからも、ヴェネチアにもう少し住んで見たいと思いました。

しかし、自転車もダメらしいので、徒歩でうろうろすることになりそうです。

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幸運の場所に移動することで、自分を知ることが出来ます。

もしも、ご家族の中に、ご病気の方がいた場合、その人の代わりに旅行することも出来ます。

生まれ持った才能を見つけたり、キャリアアップや、名声を得たい時、パートナーとの関係を良くしたい、複雑な人間関係の問題を解決したい、人助けをしたい、自分を変えたい、結婚したい・・・。

行く場所によって、受け取るエネルギーも変化します。

日本国内でも、幸運な場所は人それぞれ、異なります。

未来を良い方向へ変えたい人は、未来が少し予想出来れば、気持ちが楽になります。

老後は、ヴェネチア辺りで絵を描いたり出来ればと夢を膨らませております。

ありがとうございます。

※近日中に、FBページにて、ミラノ&ヴェネチアからのお土産をアップします。

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いつ行っても楽しめるギリシャ旅行記

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12年振りにギリシャのロードス島に行くことになりました。

 

以前行ったときは、ドイツ人観光客が目立ちましたが、ここ最近は、イギリス人に人気の観光地らしいです。

 

ギリシャで4番目に大きな島のロードス島ですが、キプロスからは、10月の初旬まで直行便が飛んでいたのですが、姪っ子の結婚式は10月14日だったので、キプロスのラルナカから、アテネ経由でロードス島に行きました。

 

パフォスを夜中の1時に出発し、アテネ経由で1時間待ち、ロードス島に到着したのは、午前10時頃でした。

 

ホテルに着いた時間が早かったので、まだ、お部屋の掃除がされていないということで、荷物をフロントに預けていたら、マイケルの義理の弟の親戚たちがエレベターから、ぞろぞろと、降りて来ました。2004年のオリンピックのときに、クレタ島に行き、そこで、一緒にランチを取った親戚たちで、十人ぐらいの人達と挨拶をして、眠気覚ましに、旧市街に行く予定で歩き始めました。

 

マイケルも私も何もリサーチせずの今回の旅行でしたので、ホテルを出て、ビーチを歩いていると、天使の銅像を見つけ、さらに、正教会を見つけました。
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お昼時だったので、ランチを取ることにしました。

 

ヘブライ語の文字があったレストランでギリシャ料理を取ることにしました。

 

なぜか、どこに行っても、ユダヤ関係の場所に引き込まれてしまうのか、地図さえないのにと思いつつ、後で、話に聞くところ、1557年に建設されたカハル・シャローム はギリシャ最古のシナゴーグであり、ユダヤ人たちの活動のピークだったそうで、1920年代には、ロードス島の街の3分の1ぐらいがユダヤ人だったらしいそうです。1940年代には、さまざまな民族的背景を持つ2000人ほどのユダヤ人が住んでいた様子ですが、ドイツによるホロコーストによってそのほとんどが移送されたそうです。第二次世界大戦後、カハル・シャロームは海外の支援者の手によって再建されたが、ロードス島に普段暮らすユダヤ人は少ないため、戦前のような宗教行事は行っていない様子です。

 

地元のビールを飲みながら、猫と戯れていたら、時間があっと言う間に過ぎて行きました。

 

義理の弟から連絡が入り、連絡せずにホテルにすでに到着していたので、驚いていました。

 

次の日に結婚式を控えているので、挨拶に来るというのですが、「無理しないで下さい。」と、言っても、最終的に、ニコシアからの甥っ子がテッサロニキ経由で空港に迎えに行って、ホテルに送って来たときに、5分ほど話すことになりました。

 

甥が、お腹が空いたということで、同じ道を通り、またまた、ギリシャ料理とビールを飲むことになりました。

 

お腹一杯になり、ホテルに帰る途中に、エバンゲリスモス正教会でコンサートが行われていました。

 

終わりぐらいだった様子でしたが、ブックマークとパンフレットを貰いました。

 

そのパンフレットのキリスト、聖母マリアのイコンは見たことがありました。

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そこには、フェオファン・グレク(Theophanes the Greek 1340年 – 1410年, ロシア語: Феофан Грек, ギリシャ語: Θεοφάνης)は、ビザンティン(東ローマ帝国)からロシアに移り住んだギリシャ人で、ロシアにおいて最も偉大なイコン画家の一人であり、アンドレイ・ルブリョフの師としても知られていると書かれていました。

 

ぶらぶらと歩いて帰り、体を休めることにしました。

 

朝、起きて、朝食を取りに行くと、ニコシアからの姪っ子と義理の姉たちとレストランで会いました。

 

彼女たちは私たちよりも、アテネで4時間待ちの飛行機に乗って来たそうでしたが、あまり疲れている様子もなく、「11時頃に私の部屋に来てね。」と、言われて、髪の毛をアップして貰うのに、美容師さんがホテルに来るので、順番が来たら隣の部屋に行くという感じでした。

 

夜は寒い感じがしたので、ワンピースにするか、ロングドレスにするか迷い、ワンピースにしました。

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午後の3時頃に、花嫁と花婿に洋服を着せるというキプロス式の伝統で家から教会に行くことが花嫁の希望だったので、ホテルから、花嫁の新居に車で移動、最初はバスで移動するということでしたが、バスの手配が何かあったのか、義理の弟から電話が来て、「3時半にXXXさんが迎えに行くからね。」と、ギリシャ語で言われて、理解していたが、マイケルがシャワーを浴びているから、掛け直すと言って、電話を切りました。

 

その後、3時半になり、アテネから来た親戚?の車で、花嫁の新居に行きました。

 

まだ、メイク中で、着付けをして行く段階までではなく、何だかんだと、2時間ほど経って、花婿の着付けが始まりました。上に行ったり、下に行ったりしていて既に疲れていました。

 

3人の音楽家が音楽を弾き始めて、花婿に着付けをして行く光景は始めて見たので、楽しかったです。

 

花嫁の部屋にも音楽家たちが、キプロス伝統の結婚式の音楽が流れたので、マイケルは遠慮していましたが、祝福するのに、紐を三回腰の辺りに回して、両頬にキスして、他の人達も同じようにしていました。

 

教会に行く時間になっても、花嫁が下に降りて来ず、すでに、大幅に遅れていました。

 

そこから、車移動で、「どこの教会?」と、聞くと、「エバンゲリスモス教会だ」と言うので、一緒に来た人達の車に乗せて貰って移動しました。

 

教会の外には凄い観光客で一杯、私とマイケルは、観光客と同じように待っていたら、義理の弟に教会の中に入るように指示されて、甥っ子たちは最初の列の椅子に座っていましたが、私たちは外で観光客のように待っていたので、他の招待客で一杯だったので、真ん中の席に座ることにしました。

 

ギリシャ式の結婚式が始まりました。

 

最後に、2つの大きな輪っかを頭に乗っけて、テーブルを3回周り、祝福の言葉を頂きます。

 

またまた、私たちは一番最後に入り、一番最後に出るという感じでした。

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他の人達は、祝福のお菓子を貰うのに、早く出ていたそうです。

 

義理の姉はキプロスからご祝儀を預かって来た人達用に、凄い、これから、売りに行くのかというほどの量を大きな袋だらけでした。

 

花嫁たちが、教会から出て来て、私たちはまたまた、ゆっくりしていたら、今度は、教会から40キロ移動のホテルへ移動することになりました。

 

もう、この時点で、夜の9時頃でした。

 

花嫁、花婿が到着したのが、午後10時頃だったと思います。

 

この時間からの食事は辛いです。

 

コース料理で、最初の前菜と次のギリシャ料理を食べた後は、もう、無理でした。

 

ギリシャワインを注いでくれるので、ごくごく飲んでいると、巨漢のギリシャ僧侶が、マイクを握り、キプロスのお祝いの歌を歌い始めました。

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この僧侶の方とは、どこかで、会った気がするのですが、キプロスに帰って、姪っ子から電話があり、話によると、サプライズだったらしいです。

 

歌った後に、直ぐに、出て行こうとしたのを私は呼び止めて、写真を撮って貰いました。

 

姪っ子曰く、誰とも写真を撮らなかったらしく、私だけの写真のみだったらしいです。

 

その後は、もう、踊る、飲む。が、続きました。

 

義理の弟、コスタがテーブル席に遣って来て、私にワインを注いで貰い、一機飲みをすることになりました。マイケルには止められましたが、まぁ、お祝いの席だったので、飲みました。2杯続けて飲んだら、姪っ子も遣りたかったのか、3杯の一機飲みは、人生で初めてでした。その後、知らない人達からも誘われて、一緒に踊ることになり、もう、シンデレラタイムを過ぎていたので、眠りたいと願い、隣の席の人達も同じホテルに帰るので、1時半頃に、まだまだ、朝方まで続いて行くパーティ会場を後にしました。

 

次の日、朝食を取っている姪っ子に聞くと、彼女たちは2時半のバスでホテルに帰り、6時頃まで、続いたらしく、特に、3時ぐらいからが盛大だったらしいです。

 

ニコシアから来ていた姪っ子たちは、月曜日から仕事があるので、今回は、ほぼ、結婚式だけのために、ロードス島だけでした。

 

私たちは、13年振りのアテネも行く予定にしていました。

 

アテネも、マイケルに「どこのホテルに泊まるの?」と、聞かれ、「どこだったかな?」と、アテネに到着して、「この住所だけど、タクシーにする?それとも、メトロ?」と、聞くという、のんびりモードでした。

 

以前は、誰かが迎えて来てくれた記憶がありました。

 

義理の妹の家に泊った記憶がありました。

 

多分、花嫁の姪っ子が、迎えに来た覚えがあります。

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今回は、ロードス島のホテルは姪っ子が予約を入れてくれていたのですが、アテネのホテルは、シンダグマ広場から近いところに自分で予約を入れたのですが、タクシーで横付けは出来ないらしいホテルということだったので、メトロにしました。

 

スーツケースを持ってうろうろして、数分後、「この通りだよね。」と、言って、ローレックスの時計屋さんのガードマンにマイケルが道を尋ねると、「ここに行きたいの?」と、聞かれ、「ここはとっても、とっても、遠いよ。」と、言われて、「どれぐらい遠いの?」と聞き返すと、指で示されたところは目の前でした。

 

スーツケースを置いて、シンダグマ広場に行きました。

 

動いては行けない、ガードの人達。

 

以前は写真を隣で取れましたが、最近はダメみたいでした。

 

その後、アクロポリスまで、歩いて行き、午後6時までに外に出ないといけないらしかったので、その反対の場所の大理石の丘みたいなところに登りました。

 

ツルツルした大理石をビーチサンダルで歩いている人を見ると、見ている方が怖くなりました。

 

帰りに、日本食を食べ、お風呂に入りました。

 

アテネも日中は29度で、ほぼ夏の気温、ちらほらとジャケットを着ている人もいますが、かなり、暑かったです。

 

次の日も、歩いて、アクロポリスまで行きました。

 

行くと、長蛇の列でした。

 

待っている間も、日差しが暑すぎました。

 

13年前に行ったときの入場料は10ユーロぐらいだったと思います。

 

今回は、20ユーロでした。さらに、修理中で、近くで写真は無理でした。

 

それでも、多くの観光客で埋め尽くされていました。

 

頂上から見る景色は格別でした。

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パルテノン神殿は、古代ギリシャ時代にアテナイのアクロポリスの上に建設された、アテナイの守護神であるギリシャ神話の女神アテーナーを祀る神殿とされ、紀元前447年に建設が始まり、紀元前438年に完工、装飾等は紀元前431年まで行われたそうです。パルテノン神殿は古代ギリシャ建築を現代に伝える最も重要なドーリア式建造物の最高峰と見なされているらしく、装飾彫刻もギリシャ美術の傑作と言えるのも頷けます。また、この神殿は世界遺産に認定されています。

 

お天気も良すぎたので、流行りのインスタグラム撮りで、若い人達が大理石の上で、何度も、ジャンプしていました。
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その後、滑った人がいたらしく、働いている人に痛み止めの薬を塗って貰っていました。

 

どこのコーヒーショップも人で溢れていました。

 

値段も他のヨーロッパと同じぐらいですから、物価が安いということもなく、また、イメージ的にはギリシャ人は働かないということもなく、話によると、拘束される時間が長い上に、給料は安い感じです。12時間労働は当たりまえですが、給料は安いそうです。

 

ギリシャ人はそれでも陽気な人が多く、ギリシャ語を少し話すと、嬉しいらしいです。
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水曜日に、マイケルのフィルムカメラの調子が悪いので、ホテルから歩いて、7分ぐらいのところにある、ライカのショップに行きました。

 

水曜日はお店が1時頃に閉まることをすっかり忘れていて、反対側の道に渡り、ふらっと見ていると、タロットリーディングをするお店らしいのを発見しました。

 

閉まっていたので、次の日に来て、英語で占って貰えるならと思い、次の日に、ライカのショップに行くと、修理するところを教えて貰い、その前に、タロットリーディングして貰えるか、その場所に行くと、アシスタントの人が出て来て、「ここで、待っていて、次ね。」と、言われて、私は待っていました。

 

マイケルはうろうろして来るからというので、待っていたら、中に入るように言われ、マイケルに電話して、「これから、中に入るからね。」と言って、入りました。

 

ニューエイジ系の物を売っている様子はなく、リーディングが主みたいでした。

 

英語で会話が出来るので、タロットリーディングをお願いしました。

 

コーヒーリーディングも出来ると言われましたが、タロットの方が良いらしいと可愛いアシスタントの方に言われました。話によると、予約制だけど、特別に途中割り込んで、リーディングして貰いました。待っている人には恐縮でした。

 

最近は、2011年にロンドンでSAGBのアランさんとのシッティングが最後でした。

 

人生で一番凄いと思った霊能者はSAGBのテリーさんで、いつ行っても、会えることなく、今に至っています。

 

今回のギリシャ人のタロットリーダーの方は、タロットを沢山使って、色々と見て下さったのですが、とても、良い事ばかり言って下さいました。

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逆に、何度も、良い事ばかり言われると、本当?と思ってしまうほどでした。

 

良い事ばかり言われると、怠け癖のある私にとっては、未来にそんなに良い事があるなら、努力を怠るので、注意することも言って欲しかったです。

 

また、「あなたは気づいていないけど、あなたは、とてもモテるは、ご主人がいても、他にも男性があなたを慕っているわよ。」と言われも、全然、嬉しくはなかったです。

 

兎に角、未来は素晴らしいらしいそうです。

 

今回のギリシャの旅は、良く笑いましたし、さらに、踊る、食べるで、体重が3キロも増加しました。

 

ありがとうございます。