原爆とともに刻まれた記憶

セミがみーんみーんと鳴いている暑い夏の日。

カレンダーが8月に変わると、私の脳内には、ある歌が自然と響いてくることがあります。

それは、義務教育の9年間、夏休み中にも学校へ行き、子どもたちがその歌を合唱するという行事の記憶です。

毎年、2つの歌を歌っていましたが、そのうちの1曲には、幼い心に強烈な印象を与えるような、怨念を感じる歌詞が含まれており、幼稚園から小学生になったばかりの子どもには重すぎて、ショックを受けた子も多かったのではないかと思います。

忘れられない思い出があります。

それは、小学一年生のときの映画鑑賞の日のことです。

その日の給食は、筋が硬い豚肉の細切れで作った焼きそばに、パンと牛乳という献立でした。

その時点で体調があまりよくなかったこともあり、給食を口にしたときに気分が悪くなってしまい、「一度家に帰りたい」と本気で思うほどでした。

当時は、学校から徒歩ですぐの距離に住んでいたため、余計に「帰りたい」という気持ちが募りましたが、ムカムカする気分を水道水でなんとか落ち着かせて、5時間目を迎えました。

その後、私たちは体育館へ誘導され、生ぬるい空気の中で、実写版『はだしのゲン』の映画を鑑賞することになりました。

ゲンの父親役は三國連太郎さんで、「非国民」と呼ばれる場面が多く、空襲警報のサイレン音が耳をつんざくような大音量で鳴り響いており、すでに私は気分の悪さを必死で我慢していました。

投下後、被曝した若い男性の役として冲雅也さんが登場し、包帯に包まれた顔を解いていくシーンが映し出されたとき、私の胃もついに限界に達しました。

顔は蛆虫に覆われ、原形をとどめていないほどに崩れた状態で、私は思わずハンカチを取り出して「ゲェ〜」と吐いてしまいました。

幸いにも上映の終わり頃だったため、ハンカチで包んで、なんとか持ち帰ることができました。

もしナイロン袋があれば、もう少し楽だったかもしれません。

遠足の日には、みんなが数百円分のお菓子を見せ合いながら、「帰りのバスで食べようね」と話していました。

私の母は、遠足や学校行事があるたびに、いなり寿司と巻き寿司、そして大きなエビフライを必ず作ってくれました。

他の子どもたちのお弁当とは違って、私のお弁当は笹の葉に包まれていたりして、開けた瞬間に「えっ⁉」と驚かれることもありました。

それも、まるで3人分のような量があり、クラスの男の子に手伝ってもらいながら、なんとか食べきった記憶があります。

そのお弁当を食べる前、私たちは原爆資料館を訪れました。

現在の資料館は新しく、明るくモダンな空間へと生まれ変わっていますが、当時は古くて暗く、まるでお化け屋敷のように感じました。

本当に夢に出てきそうな、恐ろしい場所だったのです。

焼けただれた身体のマネキンがどろどろと並び、映画で見た映像よりもはるかに生々しく、まるで地獄絵図のようなシーンが次々と目に飛び込んできました。

目をそらしたくても自然と視界に入り、耳の奥で「助けて」という叫び声が響いてくるような演出もありました。

今でも、当時の映像や空気をはっきりと思い出せるほど、強烈な印象が残っています。

広島に投下された原子爆弾により、一瞬で命を失った多くの人々。

今年で、戦後80年を迎えます。

私が初めてオーストラリアに渡った際、「どこから来たの?」と尋ねられたことがありましたが、オーストラリアではあまり深く話題になることはありませんでした。

しかし、キプロスに来てからは、「広島出身です」と答えると、すぐに原爆の話題になります。

いまだに、それほど強く、広島の出来事が世界の人々の記憶に刻まれているのだと実感します。

私は瀬戸内海の尾道出身ですが、家族の話によると、三原市や福山市には爆弾が落とされたものの、尾道には京都の本願寺との関係があったため、一発も落とされなかったと伝えられています。

暑い中、登校して先生の話を聞き、みんなで合唱した歌の記憶が残っています。

この歌は讃美歌のような雰囲気で、メロディも穏やかで歌いやすかった記憶があります。

この歌は重々しい旋律とともに、深い哀しみと怒りが込められていたように思います。

その後、私はユダヤ人虐殺の地を訪れたこともありますが、広島の原爆資料に触れたときには、もっと直接的で強烈な「怨念」を感じました。

当時は、広島市へ行くよりも、岡山県の倉敷市のほうが気軽に訪れる場所だったと記憶しています。

しかし最近では、広島市全体がとても心地よい空気に包まれており、その「波動」が良い方向へと変わったのだと感じています。

それでも、私たちの世代以降、この体験や想いをどれだけ伝え続けることができるのか、不安も感じます。

戦後80年が経過した今でも、世界では争いが絶えません。